2021年11月28日<降臨節第1主日>説教

「暗闇を味わおう」

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 ルカによる福音書21章25~31節

 今日の日曜日は、降臨節第1主日、教会の暦の上で一年最初の日となります。今日から聖餐式聖書日課は、ルカによる福音書をベースとするC年が用いられます。そして、これから約4週間アドベントと呼ばれる、クリスマスを迎えるための準備期間に入り、いよいよ来月25日に降誕日を迎えます。新しい年の始まりが、クリスマスという大きな祝日の準備期間から始まるというのは、それが如何に大切であるかということが示されている気がします。一般的にクリスマスの準備といいますと、クリスマスツリーやリースを飾ったり、賑やかなクリスマスソングを流したり、プレゼントを用意したり、そんなことを思い浮かべます。ところが、聖書はそんな風にわたしたちの心を躍らせてはくれません。降臨節最初の聖書箇所は、毎年、同じような聖書箇所が選ばれます。それは、もうすぐ、ものすごく恐ろしいことがこの地上に起こり、その後にイエス・キリストが再び来られる。だから目を覚ましていなさい、その予兆に気づきなさいという緊張感いっぱいの予告と警告です。つまり、もうすぐ世の終わりが来るというのです。この恐ろしい警告は、ルカ21:5から続きますが、イエス様がエルサレムに入り、いよいよ十字架に付けられ殺されるという日が近づく中、神殿の境内で人々に話された内容です。

 わたしは子どもの頃、聖書のこういった箇所が恐ろしくて、眠れなくなったことがありました。ほんとに怖くて、このことについて小学校高学年の頃だったと思いますが、牧師の父に相談したことを今でもはっきりと覚えています。父はその時、ポンポンとわたしの頭を叩いて、「だいじょうぶ、イエスさまが来られるんやぞ。なんにも怖いことない」と言いました。なんかおまじないをかけてもらったような感じでした。その後、妙に納得して震えが止まったのを今も不思議な感覚として思い出します。 

 成長するにつれて、子どもの頃に感じた強烈な恐怖はなくなりましたが、近年、ひょっとしたらこの聖書箇所に書かれていることが本当に起き始めているんじゃないだろうか、と思わずにはおられない状況があります。ちょうど10年前になる東日本大震災以来、日本各地で地震が起こり、南海トラフ大地震も、これから30年の間に来る確率が80%とか言われています。世界各国において必死で食い止めようとしていますが、地球温暖化による気候変動、気温の上昇や大雨の被害などは、数値だけでなくわたしたちが肌で感じるレベルで起こっています。そして、今、世界中のだれもを大きな不安に陥れ続けているのが、新型コロナウイルスです。日本では感染者が奇跡的に激減し、みんなで会食ができるまでに回復しました。しかし、お隣の韓国では感染拡大が過去最大になっており、また非常に強い変異株が南アフリカで発見され、諸外国へ広がりつつあるという報道もあります。おそらくまた近いうちに日本にも新たな波がやってくることでしょう。そこへ大地震が来たら、あるいは大水害が起こったらどうなるのでしょうか。想像すら恐ろしいことです。 

  怖い怖いと怯えるわたしたちですが、では何ができるのでしょうか。手洗い、うがい、マスクといった感染対策は怠らない。避難経路を確認し、災害時の必要備品の用意、必要な耐震工事を行うなど、備えあれば憂いなしです。でも、本当にそうでしょうか。もちろん、これらの備えも大切なことです。絶対に必要なことです。しかし、わたしたち人間のちっぽけな頭でできる備えはたかがしれています。どれだけやったって100%はありません。たとえ、大企業の社長になろうとも、一国の大統領になろうとも、あるいは世界中のお金を一人で持つことになろうとも、今後来るであろう天変地異やパンデミックから完全に自分を守ることはできません。それどころか自身の病気や家族の悩み、愛する人の死、信頼していた人からの裏切りなど、生きていれば必ず起こりうる突然の苦しみや悲しみに対する備えなど、わたしたちにはできっこないのです。そこでわたしたちの多くは、人生とはそんなもんだと半ば諦め気味になります。あるいは、今さえ楽しければいい、人生の暗闇なんて蓋をしてしまえと悪いことは全部考えないようにして生きていこうとします。

 けれども、本日の聖書が伝えようとしているのは、単なる恐怖の到来ではないのです。そうではなく、恐ろしいことが起きたり、怖いことがあったり、不安で不安で仕方がなくなるとき、また孤独の寂しさにさいなまれるとき、それは同時にイエス様がわたしたちのもとへ来られるときである。そのことを知りなさいということなのです。 怖いことが起こると分かった瞬間、思考を停止させるのはわたしたちの悪い癖です。ああ、もう駄目だ、無理だ、目をつぶろう。そして自分の殻の中に入り込んでしまいます。弟子たちだってそうでした。イエス様が彼らにご自分はもうすぐ苦しみを受け殺される、しかしその三日目に復活すると告げられた時も、弟子たちの頭は「苦しみ」という言葉でストップし、「復活」は耳に入って来ませんでした。しかし、苦しみで終わることは決してない、死は終わりでないということをイエス様は身をもってわたしたちに知らせてくださったのです。

 今日イエス様はわたしたち一人ひとりに断言されています。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。悲しいこと、辛いことが起こるのと、神さまがわたしたちに手をのばし、イエス様が共におられることを知るのは実は同時進行なのです。

 前にもお話したことがありますが、私は今からちょうど10年前のまさに降臨節の時期に、乳がんの宣告を受けました。進行性なので年明けすぐにでも手術をしましょうと。それは幼い子ども二人を抱えての出来事でしたから、もうわたしにとって天体が揺り動かされたかのような恐怖でした。目の前が真っ暗になり、宇宙の暗黒の闇に一人放り出されたような感覚でした。しかし、降臨節の中のある日突然、神さまの御手が目の前に差し出されていることを知ったのです。闇の中に小さな光が輝いていることを知ったのです。それはわたしにとって解放のときでした。そして神の国の到来でした。神の国というのは、原語では神の支配を意味しますが、まさに、わたしの心が神さまによって支配された瞬間でした。 

 この世の苦しみ、悲しみ、痛み、それはすべて神さまに出会い、すべての苦しみから解放され、神の国に招かれることのしるし、サインなのです。カトリックの司祭、晴佐久神父という方が、「病気になったら」という詩を書いておられます。その中に次のような文が出てきます。「病気になったら、このわたしを愛して生み、慈しんで育て、わが子として抱きあげるほほえみに、すべてをゆだねて手を合わせよう。またとないチャンスをもらったのだ。まことの親に出会えるチャンスを」。そして詩は次のように結ばれています。「そして自分は神の子だと知るだろう。病気になったら、またとないチャンス到来。病のときは恵みのとき。」  わたしたちは苦しいとき、必ずと言っていいほど、下を向いています。でも、その時こそ身を起して頭を上げなさいとイエス様は言われるのです。そうすれば、必ず、わたしに出会えると。 

 あと4週間で喜びのクリスマスを迎えます。クリスマスがなぜ喜びか。それはわたしたち一人ひとりの暗闇の中にイエス様が来てくださったその瞬間を思い起こす日だからです。神さまは、わたしたちが苦難にあるときにこそ、すぐそばにいてくださいます。わたしたちの心の中の暗くて、寒くて、汚い馬小屋に主イエスはお生まれくださったのです。そのことをしっかりと心に留めて、アドベントの時期を過ごしましょう。イエス様に出会うために与えられたこの暗闇を感謝をもって味わっていきたいと思います。