「昔の人の言い伝え」
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マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節
「神の掟と人間の言い伝え」。みなさんはどちらを取りますか。そりゃ、クリスチャンなら神の掟でしょと即答するかもしれません。でも、それ実はなかなか難しいのです。神の掟というのが、人間の言い伝えに比べて目に見えにくいからです。神の掟といえば、わたしたちも良く知るモーセの十戒ですが、シンプルすぎて、それを守るためにどうすればよいのかよく分からない。よく分からないから、分かりやすいルールを作ってしまおう、そうしてユダヤ教の中でできたのが、膨大な数の「昔の人の言い伝え」と呼ばれる戒めでした。本来の神さまの掟を守るためにと自分たちで生み出したこれらの言い伝えは、守るか守らないかではっきり白黒がつきます。守れたら1ポイント、守れなかったらマイナス1ポイント。ポイントがたまればたまるほど天国へ行きやすくなる。悪いことをしろとは言わないでしょうから、きちんと守って自分でコツコツポイントを貯めるのは悪いことではありません。しかし、そこには罠があります。自分の努力によって決められた戒めを守ることができればできるほど、守ることができていない周りの人が気になって仕方がなくなるのです。自分はできているけど、あの人はできていない、あいつはダメだというように。そう、人を裁くという罪に陥ってしまうのです。そうなると、そもそも何のためにそれらのルールを守っていたのかということが分からなくなり本末転倒です。
わたしは、高校からアメリカに留学し、当時日本とアメリカの学校の違いに愕然としたことを思い出します。日本の多くの学校にはたくさんのルール、校則が存在しますが、アメリカの高校には人を傷つけたり、命の危険が及ぶもの以外はほとんど自由です。日本では、もちろん学校にもよりますが、多くが髪の毛を染めたり、パーマをかけるのは禁止。化粧もピアスもマニキュアも禁止。スカートの長さも決められ、髪留めの色も規定されています。アメリカはというと、もともと髪の毛の色も質もみんな違うので誰が染めてるのか、パーマをかけているかなんて分かりません。真っ青な髪の子がいれば、丸坊主の女の子もいます。お化粧を全くしない子もいれば、アイメイクに命を懸ける子もいます。耳だけでなく、鼻や眉や舌にまでピアスをしている子もいます。とにかく、明らかに日本の学校より、アメリカの学校の方が外見に関する校則が少ないのです。それが何を意味するかというと、まず、先生はそれぞれの子どもの見た目ではなく、中身をしっかり見ようとします。そして、子どもたち同士も、自然と互いの違いを尊重し、仲間外れを作りにくくなります。わたしはわたし、その人はその人というように、人を見かけでジャッジしなくなるのです。それに加えて、若い時から、自分はどのように生きたいのか、生きる上で何が一番大切なのかということをしっかりと考えながら生きていくのです。
イエスの時代も同じようなことが議論になりました。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ教徒たちは、昔の人の言い伝えと呼ばれる宗教規定を固く守っていました。それは言わずもがな、モーセを通して与えられた神の掟、いわゆる律法を軽々しく犯さないようにするためでした。たとえば、「安息日を聖とせよ」という神の掟を守るために、その掟に関係する細かいルールを設けたのです。安息日には半径何メートル以上歩いてはならないとか、コンロの火をつけたり消したりしてはならないとか、医者は病気の人が訪ねて来ても治療を行ってはならないとか、そういう規則です。
今日の福音書にある、食事の前に念入りに手を洗うということもその一つでした。それは、わたしたちが思うような衛生面から洗った方がいいというよりは、宗教的に、汚れた手で食べ物を食べると、自分の中身も汚れてしまうという考えからです。これらの規則を厳しく守っていたファリサイ派と律法学者の人たちが、イエスの弟子が手を洗わないで食事をしていたのを見て、びっくりしたのです。会堂で偉そうに、まるで神の子のであるかのように語るイエスの弟子は、なんと我々ユダヤ人が大切にしてきた規定を守っていないじゃないかと。
イエスの弟子たちはなぜ手を洗わずに食事をしたのでしょうか。うっかり忘れちゃったのでしょうか。あるいは、単にお行儀の悪いやつがそろっていたのでしょうか。そうではないと思うのです。聖書の中には、イエスが弟子たちに手を洗わずに食事をしてもよいと言ったなどと書かれている箇所はありません。けれども弟子たちは見て来たのです。イエスが安息日に病気の人を癒すのを。罪びとと呼ばれる人々とともに食事をするのを。そして、汚れているとされた重い皮膚病を患う人、出血の止まらない女性、死んでしまった人の体に手を差し伸べ、じかに触れられたのを。弟子たちは、知らず知らずのうちに心で分かっていなのではないでしょうか。主イエスは昔の人の言い伝えを超えたはるかに大切なものを知り、それを自分たちに伝えようとしておられるのだということを。そんな弟子たちにとって、食事の前に手を洗うことは既にナンセンスだったのかもしれません。
そんな弟子たちを咎めるファリサイ派と律法学者に対し、主は旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引用した上で、言いました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。あなたたちが敬虔なのは、形式だけで、心は神から遠く離れているではないか。あなたたちは人間が作った規則を一生懸命守って満足しているが、それによって本当に神様が望まれていることができてないではないかと。これを聞いたファリサイ派と律法学者の人たちはどう思ったでしょうか。おそらく理解できなかったのではないかとわたしは思います。なぜなら、当時、「神の掟」と呼ばれるものと、「人間の言い伝え」と呼ばれるものは、ユダヤ教において同等と見なされていたからです。手を洗うことは、汚れから自分を守ることであり、それは神から命じられたものであると人々は思いこんでいたのです。しかし、イエスは、それらの二つを根本的に区別したのでした。目に見える規則に捕らわれるのはやめ、目には見えない本当に大切なことに目を注ぎなさいと。それが「愛する」ということだったのです。
その後、主は、今度は群衆を呼び寄せて、言われました。「外から人の体に入るもので、人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるのである」と。汚れとは、心の問題であるということです。旧約聖書のサムエル記にはこんな言葉があります。神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)
心がすべてなのです。山上の説教で言われたイエスは言われました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心が貧しいとは、心が空っぽだということです。心が自分の思いでいっぱいに詰まっていたら、そこからみだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別、これら悪いものが出てくる。だからそういう悪いものが出てこないように、心の中を自分の思いでいっぱいにしないようにしよう。そういうことを言われているのかもしれません。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とも言われます。心が清い状態、小さな子どものように心が無垢な状態が、いちばん神さまに近い状態なのです。どんなに、規則をきちんと守っていても、どんなに礼儀正しくても、どんなに人の目に正しいことをおこなっていても、どんなに善い行いをしようとも、心が清くなければ、神さまの目には、意味がないのです。
ではどうすればよいのでしょうか。心の中を神さまの愛で満たすことです。主イエスが一番重要な掟と言われた、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」。ただそれだけです。「愛する」ということがどういうことか分からなくなったとき、人間が作ったルールではなく、まわりの目にどう映るかでもなく、イエスならどうされたかを考える。それのみです。主イエスがわたしたちに教えてくださったことは一体何だったのか。毎日聖書を読み、イエスに従う強い信仰が与えられるよう祈り、いつも謙遜な思いをもって歩んでまいりましょう。