2020年11月8日<聖霊降臨後第23主日>説教

心の備え

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マタイによる福音書25章1~13節

 今日の箇所には10人のおとめが登場します。当時の婚礼について、このような解説がありました。

 当時の婚礼の慣習では、花婿は花嫁の両親の家まで花嫁を迎えに行った。おとめたちと招待客は、花婿の両親の家に戻る二人を待ち、一緒に家に入り、そこで祝宴がはじめられた。

 つまり花婿は自分の両親の家から相手の両親の家まで花嫁を迎えに行き、そして花嫁を連れて戻ってきていたわけです。2000年前のユダヤです。スマホもなければGPSもありませんでした。途中なにかトラブルがあったり、花嫁の家で手間取ってしまったり、予定していた時間に花婿が帰ってこなかったとしても、決して珍しいことではありませんでした。

 さて、イエス様のたとえの中には、10人のおとめが登場します。彼女たちはみな花婿が帰ってくるのを、今か今かと待っていました。しかしその10人は、二つのグループに分けられていました。5人は賢く、5人は愚かだと。

 どうして愚かだというのでしょうか。それは油の準備を怠っていたからでした。花婿が帰ってくるまで、10人ともみんな眠ってしまいました。それはみんな一緒です。でも違っていたのは、賢いおとめたちはともし火だけではなく壺に油を入れて持っていたということでした。

 しかし愚かなおとめたちは油を持っていなかったので、花婿が帰って来て迎えにいくときに、ともし火が消えそうになってしまいます。そこで急いで油を買いに店まで走りましたが、戻ってきたときには婚宴は始まっており、彼女たちは締め出されたということです。

 この物語を聞いて、あなたは「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」のどちらになりたいですかと聞かれたら、当然みなさん「賢いおとめです」と答えるでしょう。わたしだってそうです。締め出されたくはありません。

 ではあなたは、賢いおとめですかと聞かれたらどうでしょう。わたしは胸を張って、「はい、わたしは賢いおとめです」とはなかなか言えません。準備万端、何もかも大丈夫ということにはなかなかならないからです。そもそもどういう人が「賢く」、どういう人が「愚か」なのでしょうか。

 今日のマタイによる福音書25章はイエス様の受難の場面、マタイでは26章と27章に書かれていくイエス様の十字架の場面の直前の物語です。つまりイエス様は、このたとえを、ご自分がまもなく十字架につけられることがわかっている状況の中で語られました。

 イエス様は言われます。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と。目を覚ます、これは決して肉体的なことだけを言われているのではありません。現に5人の賢いおとめたちも、眠気がさして眠り込んでしまいました。それでも「賢い」と言われています。

 では何が賢かったのか。それは壺に油を満たしていたことです。彼女たちは壺に油を満たし、備えていた。そのことに対して、「賢い」と言われているのです。それではわたしたちにとっての油とは、いったい何なのでしょうか。

 先ほども言いました通り、イエス様はこのたとえを十字架の直前に語られています。すでに弟子たちには、ご自分の受難の予告を三度されていました。ということは、苦難の中でも辛抱しなさいということがメッセージの中心になるのでしょうか。

 わたしはそうではないと思います。それはこのたとえは「婚宴のたとえ」だからです。婚宴と聞いて、みなさんはどんなイメージを持ちますか。先日、この教会では久しぶりに結婚式がおこなわれました。耐震工事やコロナの関係もあり、しばらく結婚式はなかったのですが、やはり結婚式はよいものです。喜びにあふれていました。

 わたしは花婿を待つ10人のおとめの気持ちを想像していました。花婿が花嫁を連れてくるのを待っているわけです。「どんな人だろう」、「優しそうな人かな」。みんなでワイワイ語り合いながら、楽しそうに待つわけです。

 花婿の家からは、祝宴でふるまわれる美味しそうな料理のにおいがただよってきます。「きっと素晴らしい婚宴になるわね」なんてことを言い合い、でも待ちくたびれて、スヤスヤ眠ってしまうんです。

 そのときの彼女たちの表情はどうでしょう。みけんにしわを寄せ、怖い顔をして眠っているでしょうか。そんなことはないでしょう。楽しい宴の夢を見ながら、うれしそうに眠りについているはずです。

 花婿が帰ってくるのを心待ちにする。その思いは、わたしたちがイエス様が再び来られるのを待ち続ける信仰と通じるものがあると思います。再臨というとなんだか怖いイメージをもってしまうかもしれません。イエス様が審きに来られる。すべてを焼き尽くしてしまうといったような。

 しかし、イエス様は再び来られて何をされるのか。婚宴に招待してくださるのです。宴の席に招いてくださるのです。お葬式のときに、よく読まれる聖書の言葉があります。ヨハネによる福音書14章の1節からです。

 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 このイエス様の約束を信じ、わたしたちは壺に油を入れ、待ち続けるのです。壺の油、それはその約束を信じる信仰であり、神さまから与えられた希望であり、神さまがいつも与えてくださる愛や恵みなのです。

 その油をわたしたちが大切にするときに、わたしたちはイエス様と共に婚宴の席に着くことを許されるのです。