2020年11月15日<聖霊降臨後第24主日>説教

「預けられた物」

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マタイによる福音書25章14~15、19~29節

 み言葉を語り、福音を届けること、それはわたしが司祭という立場において、何よりも大切にしたいことです。それは何も、礼拝説教だけを指しているものではありません。人と関わるときも、何かをしようとするときも、み言葉を宣べ伝える者としての思いを大切にしながら歩んでいきたいと思っています。

 さて、今日読まれた聖書の箇所は、「タラントンのたとえ」という小見出しがつけられたところです。ある人が旅行に出かけます。主人は旅行に出かけるにあたり、僕たちを呼びます。そして一人には5タラントン、一人には2タラントン、そして最後の一人には1タラントンを預けて出かけて行きます。すると5タラントンを預かった人と2タラントンを預かった人は商売をしたりして、そのお金を倍にします。ところが1タラントンの人はそれを隠しておきます。1タラントンはそのままです。主人が帰って来たとき、倍にした二人の僕は大いに褒められますが、1タラントンの僕、預かったものをそのまま返した僕は主人に言われます。「なまけ物の悪い僕だ」と。そして持っていた1タラントンを取り上げられて、外の暗闇に追い出されてしまいます。

 どうでしょう、この物語、すんなりと受け入れられますか。たとえば預かっていた1タラントンがなくなったのであれば、主人に怒られるのは理解できます。しかし彼は、預かったものをそのまま返しました。それなのに、主人は「悪い僕」だと、外の暗闇に追い出してしまうのです。そこまでされるということは、わたしたちの思いとは少し違った意味が隠されていそうです。なぜならこれは、天の国のたとえとして語られたものだからです。

 天の国のたとえとして語られるこの話を、わたしたちはもう少し丁寧に読む必要があるかもしれません。まずタラントンというお金ですが日本の価値に直すと約6000万円になります。恐ろしくなって地中に隠すのも理解できます。だってもしそんな大金、盗まれたらどうしよう、使ってしまって損をしたらどうしよう、投資に失敗したらどうしようと思うからです。

 さらに言うと、2タラントンの人は1億2000万円、5タラントンの人にはなんと3億円もの大金を預けて主人は出かけて行ったのです。そして彼らはそれらを倍にしたということ。このたとえはそういう話なのです。

 金額を言ったとたん、「わたしには関係ないわ」、「自分とは違う世界の話だ」とはなっていませんか。もう一度言いますが、これは天の国のたとえ、わたしたち一人一人に関わる話なのです。

 タラントン、タラントというと、聖書的・教会的には「賜物」という言葉としてとらえることができます。わたしたちにはたくさんの賜物が神さまから与えられています。そう、たくさんの賜物です。よく謙遜して、「わたしはちっぽけな賜物しか頂いていません」という方がおられますが、そうではないです。神さまはわたしたちにはもったいないほどの、あふれんばかりの賜物、タラントンを与えられたのです。

 このたとえに登場する主人は神さま、僕はわたしたちです。神さまはそれぞれの力に応じて、わたしたちに賜物を与えられました。ある人には5、ある人には2、ある人には1。数字にしたら少なく感じますが、その単位はタラントン、1つにつき6000万円もの価値があるのです。神さまはその賜物を、わたしたちに惜しむことなく用いなさいと言われています。地中に隠すのではなく、自分の中に閉じ込めておくのでもなく、人前にさらけ出しなさい。人のために活用しなさい。隠すことなくあらわにしなさいと命じられているのです。

 最初にわたしはこう言いました。「み言葉を語り、福音を届けること、それはわたしが司祭という立場において、何よりも大切にしたいことです」と。それはわたしが神さまから頂いた素晴らしい賜物は、この「語る」、「届ける」ということだと思っているからです。 わたしはいつでも惜しみなく、このタラントンを用いていきたいと思っています。だから語る場所があれば喜んで語りますし、誰それのところに行ってほしいという話があれば、何よりもまず行って神さまが共にいてくださることを伝えたい。

 でもこれは、みんながみんな、同じことをしなければならないということを言っているのではありません。今日のたとえ、面白いなあと思うことがあります。それは「それぞれの力に応じて」、神さまは一人一人にあった賜物を与えているというところです。額の大小もありますが、賜物の種類もひとそれぞれ違うということでしょう。

 そして例えば2タラントンの人は5タラントンの人に対し、「お前だけずるい、なんでそんなにもらえるのか」とは言っていません。それぞれが十分与えられているからなのです。そしてわたしたちにも、わたしたち一人一人のために、わたしたち一人一人にあった賜物を、十分に与えて下さっているのです。

 少し具体的な話をしましょう。先週の日曜日、子ども祝福式のあとに教会では「ミニ運動会」をおこないました。いろんな方がおられました。実際に競技に参加される方、マイクをもって説明される方、みんなの前でダンスを教える方、前の日に遅くまで準備をしていた方、いろんな人においでよと声掛けをしてくださった方、お昼の準備をしてくださった方、パン食い競争のパンを一生懸命つけておられた方、満面の笑顔で応援していた方、パンやおにぎり、ポップコーンを配って回っていた方、少し離れたところで見守っておられた方、次の時間におこなわれる会合の準備をされていた方、参加してくれた人たちに物品を紹介してくれていた方、黙々と会計をしていた方、綿菓子を子どもたちに提供してくれた方。

 当日来ることはできなくても、運動会の時間には帰らなくてはいけなくても、お祈りに覚えておられた方も多くおられます。お一人お一人が自分のできることを、賜物を地中にかくすことなくおこなった。そこに何が生まれたのか。たくさんの笑顔が生まれたんです。子どもだけではない。関わったたくさんの人たちの笑顔がそこにはありました。

 それぞれのタラントンが倍になるって、そういうことだと思います。単にもうかったということではないのです。喜びなのです。あふれんばかりの喜びが、わたしたちを包み込むということなのです。

 そんなわたしたちに神さまは、きっとこう言ってくださるでしょう。「忠実なよい僕だ。よくやった」。

 これからもわたしたち一人ひとり、神さまから与えられた賜物を生かし、神さまに喜ばれる器として歩んでまいりましょう。