「見失ったもの」
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ルカによる福音書15章1~10節
今日読まれたのは、ルカによる福音書15章の1節から10節です。ここで語られているのは100匹の羊の話、そして10枚の銀貨の話です。これらのたとえは、「見失われたもののたとえ」と呼ばれ、なくしていたものが見つかった、いなくなったものが帰って来たということが共通のテーマとして語られています。
先週奈良基督教会では、洗礼堅信式がおこなわれました。洗礼式は、入信の式の中に入っています。入信とは信仰に入るということです。ある意味で、それは正しい言葉だろうと思います。
しかし一方で、信仰に入ると言ってしまうと、何だか自分の力によって、これから教会に連なっていく、そのようなイメージも持ってしまいます。しかし本来、そうではないのですね。わたしたちはずっと、神さまの子どもです。でもその温かいみ手から離れ、自分勝手に生きてきた。その中で、神さまが実はいつもそばにいたのだということを感じ、神さまに委ねて生きていこうとする。その思いがあって、洗礼を受けるのです。いうなれば洗礼とは、神さまの元に帰る式、そう言ってもいいのかもしれません。
今日最初に読まれたのは、100匹の羊のお話でした。100匹の羊を持っている人がいた。でもある日、その中の1匹がいなくなった。すると羊飼いは99匹を野原に残して、見失った1匹を捜し回らないだろうか、というのがイエス様の問いかけです。
今、この話を聞いているみなさんは、「そうだよね、捜し回るよね」と思うかもしれません。みなさん、優しいからです。でも当時、イエス様の話を聞いている人たちは、こう考えたのです。「そんな、捜し回るわけないじゃないか」と。
イエス様は、どのような視点でこのたとえを語られたのでしょうか。聖書の最初を読んでみると、15章の3つのたとえ話は、このような中で語られたことが分かります。
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
さらに羊のたとえを語られた後、イエス様はこのように言われています。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
つまり罪人や徴税人と語ったり、食事をしたりするイエス様を非難するファリサイ派や律法学者に対して、このたとえは語られたというのです。そして1匹の羊は「悔い改める一人の罪人」、99匹の羊は「悔い改める必要のない99人の正しい人」ということになるわけです。ファリサイ派や律法学者は、自分たちは悔い改める必要がないと考えていました。律法を守り、きちんとした生活をしていると思っていました。そして周りに罪を犯した人などがいると、自分たちの中から排除していきました。自分たちも汚れると思ったからです。
先ほど、当時の人たちがこの話を聞いたときに、「そんな、捜し回るわけないじゃないか」という反応をするとお話ししました。それはなぜか。群れから離れる羊には、特徴があったからです。その羊は、病気をしてしまったり、ケガをしてしまったり、年をとってしまったり、歩くことができなくなってしまったり。つまり、弱い羊なのです。そのような状態になると、群れからはぐれてしまうのです。仲間たちも見捨てます。弱い羊と一緒に歩いていると、自分たちまで危ない目に遭うかもしれません。
では羊飼いはどうするのか。普通の羊飼いはその弱い羊を、見捨てるんです。その羊の歩くスピードにあわせたら、次のオアシスにたどり着けないかもしれない。夜までに安全な場所にいくことができないかもしれない。だから普通の羊飼いは、草むらでうずくまっている弱い羊に気づいたとしても、ほおっておくのです。そのまま行ってしまうのです。
その見捨てられた羊を、イエス様は、罪人や徴税人と同一視しているようです。罪人や徴税人、今の社会でいうと、どういう人たちになるのでしょうか。社会から追いやられた人、自分の力だけで歩けない人、心や体に弱さを持った人。わたしたちだって、その見捨てられた羊のようになることがあると思います。孤独を感じ、生きづらさを覚え、うずくまって歩けなくなる。仲間がどんどん離れていくのに、声を上げることすらできない。それが見捨てられた羊なのです。しかしイエス様は語られます。その羊飼いは、そのような羊を決して見捨てることはしないと。いや、見捨てないどころか、99匹の羊を野原にほおっておいてまで、見失った羊を捜しまわり、見つけだしたら大喜びするのです。それがイエス様の語る羊飼い、そしてそれがイエス様のわたしたちに対する思いなのだということなのです。
弱った羊は役に立たないし、自分たちの足手まといになるからいらないと考える人たち。それは罪人や徴税人などそばに来てほしくないという人たちでもあります。しかしイエス様はその人たちに対して、わたしはその1匹を何よりも大切にするのだと語られるのです。
さらにイエス様はもう一つのたとえを語られます。10枚の銀貨を持っていた女性が、そのうちの1枚をなくしてしまった。銀貨が自分の意思で隠れたわけではありません。いつの間にか、女性が見失ってしまったのです。1枚の銀貨が手元にないことに気づいたとき、その心の動揺は、わたしたちにも想像がつきます。「どうしよう」、「どこに行ったんだろう」。その思いが心の中を占め、じっとしてはおられないのです。「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とイエス様は言われます。わたしたちは、神さまから離れてしまうことがあります。そのようなときに神さまは、「どこにでも行ったらいい」とあきらめ、わたしたちのことは忘れてしまうのでしょうか。
決してそうではありません。神さまはわたしたちの名前を呼び、「どこに行った」、「ここにいるのか」と目を皿のようにして捜し、そして隠れているわたしたちを見出したときに、喜びの声を上げられるのです。この銀貨もまた、わたしたちの姿なのです。
先週、洗礼堅信式のあとである信徒さんから、「先生、ずっとニコニコしてはった」といううれしいお言葉をいただきました。たくさんの方々と一緒に、洗礼者、堅信者を迎え入れました。そのときにわたしは、わたし自身が昔、迷子の羊のように、見失われた銀貨のように、イエス様が必死に声を掛け、神さまが懸命に捜しまわり、見つけ出されたときのことを思い返していました。
大丈夫だからと抱え上げられ、そして神さまに迎え入れられたことを思い返すとき、そこにあるのは大きな喜びです。神さまはいつもわたしたちを捜し、見い出そうとされている。そのことをわたしたちはいつも覚えていきたい。そしてそのことを、多くの人に伝えていきたいと思うのです。神さまは、わたしたち一人一人を愛しておられます。そのことを心に留め、これからも歩んでまいりましょう。




