「イエス様の願い」
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ヨハネによる福音書17章11c~19節
お祈りというと、わたしたちはいろいろなことを思い浮かべます。まず時間帯。日常的にお祈りしている方であれば、朝起きたとき、食事の前、寝る前、またある一定の時間を決めてということがあるでしょう。また、何かあったときに、お祈りするという方もおられるでしょう。うれしいことがあったとき、神さまに感謝したいことがあったとき。そして悲しいこと、辛いことがあったとき、どうしようもない現実に直面したときにお祈りする方もおられるでしょう。
そして、誰のためにということ。様々な場面でのお祈りを振り返ったときに、一番時間を費やしているのは、誰のためのお祈りでしょうか。自分でしょうか。家族でしょうか。それとも神さまのために祈っているでしょうか。
昔、ある学生に、キリスト教のお祈りについてこんなことを言われたことがあります。「キリスト教のお祈りって、他の人のためにするのが特徴ですね」って。たしかに教会でお祈りする代祷を見ても、そうだなと感じます。ただここで勘違いしないでほしいのは、自分のために祈るのはダメだということではありません。自分の心が平安で、肉体が癒され、神さまがよい導きを与えてくださいますようにという祈りも、とても大切なものです。
でもそれと同じように、誰かのために祈ること。それをわたしたちは大切にしている。そのことをその学生さんは、肌で感じたということなのでしょう。そしてそのお祈りの元になったのは、イエス様のお祈りです。ただひたすら弟子たちのために祈る、その姿です。
今日の福音書は、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」という言葉で始まり、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」という言葉で終わります。
イエス様のお祈り、それはただただ弟子たちのため、残される人たちのため、そしてそれは、わたしたちのためにもなされているものです。そしてその祈りの内容は、「彼らも一つとなる」ということです。ただ、「一つとなる」と聞きますと、「一致団結」とか「全員一致」とか、そのように思うかもしれません。でもそうではないのです。なぜならそこに、「わたしたちのように」というイエス様の言葉が付け加えられているからです。
イエス様の言う「わたしたち」とは、お祈りをしている相手、つまり神さまとイエス様のことです。神さまとイエス様、そして聖霊は、三位一体と言われます。一体、つまり一つではあるものの、三つの異なる位格を持つということです。ただそう言われても、なかなか理解できないことです。簡単に言うと、神さまは様々な形でわたしたちに関わって下さる、そういうことではないかと思います。でも元々の思いは一つなんですね。その思いとは、わたしたちを誰一人として見捨てない、すべての人を救いに導く、その思いなのです。
今日の特祷、お祈りの中に、このような言葉がありました。「どうかわたしたちを助けのない者とせず」。聖餐式聖書日課を持っておられ、お祈りの時にその文言を目で追っていた方は「おや?」と思ったかもしれません。というのもわたしたちが持っている本には、「どうかわたしたちをみなしごとせず」と書かれているからです。この「みなしご」という言葉に不快感を持つ方がいるかもしれないという理由で、教区主教からメールがあり、「助けのない者」と読み替えるように指示がありました。ただ新しく出された聖書でもそのまま、「みなしご」という言葉が使われているのですが。それはともかく、「みなしご」、「助けのない者」、それは、一人ぼっち、孤独ということです。わたしたちが孤独にならないように、祈る。それはつまり、神さま、一緒にいてください。手を差し伸べてくださいということです。
「一つになる」、それはわたしたちがまったく同じ方向を向いて、同じ歩幅で歩くことと感じるかもしれません。人間的な意味で一つになろうとしたら、どうするのが一番手っ取り早いでしょうか。たとえば自分と違う考えの人がいたらどうするか。わたしたちはついつい、その自分とは違う考え方を否定することから入ることが多いんですね。その人に向かって、それは間違っている、正しくない。わたしたちと一緒になりたかったら、その考え方を改めなさい。そうやって人を変えようとする。そして相手が変わらなかったら、そのままその人を排除してしまう。わたしたち人間はそうやって、出会いと別れを繰り返していったのかもしれません。そしてそれは、教会においても言えることでした。
教会において、一番陥りやすいことは、聖書の解釈や伝統という言葉を用いて、自分たちの正しさを主張することです。「大事にしたいもの」、それはあっても構わないし。これからも大切にしていくべきだと思います。しかし、自分たちが居心地のよいように聖書を解釈し、自分たちに都合の良いように伝統を築き上げていくのだとしたら、それはちょっとおかしな話です。イエス様の言われる「一つになる」とは、決してそういうことではないのです。ではどういうことでしょうか。それは、神さまを真ん中にして、イエス様につながれ、聖霊によって導かれて生きていく。わたしたち一人ひとりがそのように結ばれるときに、わたしたちはキリストにあって一つとなるのです。
ローマの信徒への手紙の中にこのような言葉があります。
「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。
わたしたちはそれぞれ違う賜物をいただいています。またわたしたちが遣わされるところも、それぞれ違います。しかしわたしたちは、キリストに結ばれて一つです。そのことをイエス様は、何よりも望まれました。神さまがそのように導いてくださるように、整えられました。わたしたちはそれぞれに与えられた恵みに感謝し、神さまの導きを求めながら歩むことが出来ればと思います。
そして来週、わたしたちは聖霊降臨日を迎えます。わたしたちに聖霊を与え、寄り添ってくださる神さまの思いを感じましょう。そしてわたしたち一人一人が、自分には何ができるのか、どう祈っていくのか、求めていくことができますように、祈り続けていきたいと思います。