「主よ、あなたはどこにおられた?」
YouTube動画はこちらから
マルコによる福音書4章35~41節
今日6月23日は、戦後79年目となる沖縄慰霊の日です。今朝の礼拝の中で、陪餐の時に聖歌423番「沖縄の磯に」を歌います。この曲は、沖縄教区の作曲家、下地薫さんによる、琉球音階のゆったりとした、なんともノスタルジーを感じさせるメロディーで、そこに今年1月1日に天に召された東京教区の山野繁子司祭が詞を付けられました。山野先生は、ある年、その歌詞にあるように、実際に沖縄の美しい海辺に十字架を立てて、教会の皆さんとともに祈りをささげられ、その時に感じられたご自身の強い思いを詩になさったそうです。美しい沖縄の空と海と砂浜を見つめながら、そこはかつて多くの命が失われた地であったことを彼女は思います。青い海が血に染まると同時に、すべての希望が奪われた地。ガマと呼ばれる洞窟の中で、人びとは身を隠して生きることを余儀なくされ、かけがえのない命を落としていきました。人々はきっと救いを求めて心の中で叫び続けたことでしょう。山野司祭はそのことを思いながら、ふと怒りがこみ上げてきます。神さま、あなたはその時どこにいたのですか? 人々の叫びを聞かれなかったのですか? なぜなのですか?と。
涙が頬をつたっても、答えは返ってきません。でも、そこに立てられた十字架を見上げたとき、彼女は改めて気づかされるのです。十字架は、私たち一人ひとりが、もう一度神さまと出会うために、想像を絶する苦しみのうちに死んでくださったみ子イエスさまの愛であること。そして、今も私たち一人ひとりのもつ痛みや苦しみをすべて分かり、共に背負ってくださっているしるしであること。そして、かならずそこから再び立ち上がらせてくださる、復活の約束を告げるしるしなのだということに気づき、信仰を固くされたのです。
聖歌では、1番から3番まで、各節の後に「命どぅ宝、小さな命、命こそ宝、豊かな、豊かな命」と繰り返されます。私たちは沖縄の痛みを決して忘れず、しかし同時に、私たちは与えられた小さな命を生き抜かなければならない。神さまは必ずや私たちを絶望から立ち上がらせ、新しい命、永遠の命を与えてくださるのだからとこの聖歌は教えてくれます。目には見えない、強い約束のしるし、希望、それが十字架なのです。
そう、約束は目に見えません。どんなに素晴らしい、大きな約束があったとしても、目に見えなければ私たちは暗闇の中で見失ってしまいます。ですから、絶望のどん底にいるときには本当に苦しくなります。トンネルの出口が見えないのです。ただただ恐怖。「もう終わった」とつぶやかざるを得ないときが、私たちの人生には波のように何度も何度も押し寄せます。
今日の福音書は、3つの福音書に載せられた有名なお話、「嵐を静めるイエス様」です。私たちはこのお話が大好きです。イエス様と12人の弟子たちを乗せた小舟はそれまで穏やかに湖を進んでいたのに、ある時突然突風が吹き、湖は大荒れに荒れて、小さな船は沈みそうになります。弟子たちは必死で抵抗しようとしますが、自然の力に打ち勝つことはできません。もうだめだ、船はひっくり返り皆おぼれ死んでしまうだろうと感じた瞬間、イエス様が共におられたことを思い出し、寝ておられたところを叩き起こして、助けを求めます。イエス様は、何を怖がっているんだ、私がいるじゃないかと弟子たちを叱責した後、嵐を静めるのです。スーパーヒーローの物語です。祈りは聞かれます。信じる者は救われます。求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。叩きなさい、そうすれば開かれる。信仰があれば必ずハッピーエンド!
果たしてそうなのでしょうか? 沖縄慰霊の日の今日、聖書はそのことを私たちに伝えようとしているのでしょうか? この物語の中で私たちが今日、いちばん心に留めたいところは、イエス様が嵐の中、「眠っておられた」ということです。普通の人間は、大風が吹いて波が高くなり、舟は浸水し、今にも沈みそうになっている状況の中で眠っていられるわけがありません。どんなに眠くても無理でしょう。でもイエス様は眠っておられた。ここにどういう意味があるのでしょうか。本当は起きていたが、弟子たちを試そうとしておられたのかもしれません。あるいは、ご自分が乗っている舟が沈むはずがないと分かっておられた、これからやってくる十字架の苦しみを思えばこんな嵐はなんともないことを弟子たちに分からせたかった、とも考えられます。
けれどもそれらはすべて、私たちのこの小さな頭で考えつくことです。本当のところ、イエス様がなぜ嵐の中で、弟子たちが死ぬ思いで苦しんでいる中で眠っておられたのかは分かりません。そして、もう一つここで見落としてはならないのは、このイエス様が眠っておられる間、彼の存在は弟子たちの目に入っていなかったという事実です。イエス様は、弟子たちのパニックの中で見えなくされていました。
そして、イエス様の存在を思い出したとたん、弟子たちは、怒りにまかせて叫ぶのです。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか!」 この叫びは、今朝読まれた旧約聖書のヨブ記全体のテーマになっています。ヨブは、生涯神の目に正しい人であったにもかかわらず、何不自由ない豊かで幸せな生活をしていたところから、不幸と苦しみのどん底へとつき落とされるという目に遭います。私が何をしたのですか? どういうことですか? 神よ、あなたはなぜ黙って見ておられるのですか? ヨブはその書物の何十章にもわたって、自分の思いのすべてを神さまにぶつけます。そして最後に、神さまはとうとう答えられるのです。それも嵐の中から!「お前は私の何を知っているのか? 私はこの世界の創造主なのだ」と。ヨブの問いかけに対する神の答えは一見とんちんかんのようにも聞こえるのですが、要は、このお話が私たちに伝えてくれているのは、この世に起きる全てのことの背後には神様のご計画があるということ、私たち被造物の理解をはるかに超えたところで神様は働いておられる、だから信頼するほかないということなのです。
先週の福音書では、イエス様が神の国をこのようにたとえられました。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」種は、いったん土の中に埋めてしまうと見えなくなります。どこに埋めたかもわからなくなるし、いつ芽が出るのか、どんな芽が出るのかさえもわかりません。私たちには神さまのご計画はわからないのです。そして、わからないと私たちは不安で不安でたまらなくなるのです。
弟子たちは、眠っておられるイエス様を必死で起こし、怒りながらも助けを求めました。もちろん、私がその場にいてもそうすることでしょう。「私たちがおぼれてもかまわないのですか」、いやもっと酷い言葉をかけたかもしれません。そして、イエス様は弟子たちの願い通り助けてくださいました。しかし私は思うのです。ひょっとして、慌てふためいて神様に暴言を吐く代わりに、嵐の中に眠っておられるイエス様のそばに行き、そこで私も枕を並べて眠ることができたなら、どんなに幸いなことだろうと。その先どうなるか、どこへ行きつくのかは、私たちには見えないし、わからない。でもイエス様が一緒におられるのです。神さまが共におられるのです。
それが、イエス様の十字架です。十字架は、死刑の道具。痛み、苦しみ、悲しみが伴います。けれども、私たちは知っているのです、その向こうに新しい命があるということを。それこそが、命どぅ宝です。
今、嵐のただ中におられる方、先の見えない真っ暗なトンネルの中におられる方、もういっそ消えてしまいたいと感じておられる方へ、これだけは言わせてください。この全世界をお造りになった神さまは、あなたとともにおられます。決して見放されることはありません。毎日小さな祈りの種を蒔きましょう。そしてその後は焦らずお任せすること。いつ、どんなにかは分からなくても、その種は必ずや成長し、葉の陰に空の鳥が巣をつくれるほど大きな枝を張らせてくださいます。