本日の通読箇所「ローマの信徒への手紙4:9~12」
どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
(ローマの信徒への手紙4章10節)
パウロは論理的に、アブラハムの義について語っていきます。このような議論の展開について行ける人と、ちょっと苦手に感じる人と入ると思います。わたしは後者です。そんなに白黒はっきりさせていかなくても、と思ってしまいます。
聖書によると、アブラハムが神さまから義と認められて(創15:6)、割礼を受けるまでに(創17:24)、29年の歳月が流れていました。つまり神さまは割礼の有無にかかわらず、「義」と認められる方だというのです。
そして義とされた証印として、割礼があったのだと説明します。しかし現在、わたしたちは割礼を受けていません。ではわたしたちには何が義とされた証印なのでしょうか。それは洗礼です。だからわたしたちは、洗礼を大切にしているのです。