2022年2月6日<顕現後第5主日>説教

「御覧になった」

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 ルカによる福音書5章1~11節

 ガリラヤ湖のほとりに、イエス様の話を聞こうとして多くの群衆が集まっていました。イエス様は少しでも多くの人に神さまのことを伝えたいと考えられたのでしょう。岸にある2そうの舟に目を留め、その持ち主である漁師に、自分を乗せて沖に向かって漕ぎだすようにと頼みます。そして腰を下ろして、舟の中から群衆に教え始められました。

 風も、波もない、穏やかなガリラヤ湖。少し沖合に浮かんだ小さな舟から、イエス様の声が聞こえます。そしてその声ははっきりと、神さまの愛について伝えます。群衆はさぞかし嬉しかったことでしょう。しかし複雑な思いをしてイエス様の話を聞いていた人たちもいました。ペトロを始めとする漁師たちです。

 彼らはイエス様の話を聞きたくてガリラヤ湖にいたわけではありませんでした。たまたまそこにいただけの人たちでした。その彼らと2そうの舟を、イエス様がご覧になったのです。

 彼らの心は沈んでいました。それはなぜかと言いますと、夜通し苦労して漁をしていたにも関わらず、何もとれなかったからです。彼らは魚を取ることで、生計を立てていました。豊かな貯えがあったわけでもないでしょう。今日をどうやって生きるのか、疲れ切った心と体で考えないといけない、その状況の中で、イエス様が乗り込んできたのです。イエス様の話を聞きたくてガリラヤ湖に来ていたのであれば、イエス様が舟を使いたいと言われたら飛び上がって喜んだでしょう。でも、違うのです。彼らは絶望と疲労の中で、網を洗っていました。全てをあきらめ、家に帰ろうとしていたのです。

 この、彼ら漁師たちとイエス様との出会いを思い浮かべながら、ぜひご自身とイエス様との出会いを思い浮かべてみてください。あなたはどういう状況の時にイエス様を感じられたでしょうか。入院中にふとイエス様のぬくもりを感じたこと。人の死に何度も向きあわされた中で牧師への道に呼ばれたこと。わたしはそのことを思い出します。イエス様はわたしたちが望んだように関わってくださるのではなく、わたしたちが求めたときにちょうど居合わせてくださるのでもないのかもしれません。またわたしたちが肌つやもよく、気力がみなぎっているときに背中を押してくれるのでもないような気がします。

 それどころか、身も心もボロボロで、疲れ切り、自分の力で歩くことすらままならないその中に、不意に来られる。それがイエス様のように思います。そしてこのように言われるんですね。「わたしに従いなさい。わたしと共に歩みなさい」。

 わたしは、このイエス様の姿を心に浮かべたときに、言葉を選ばずに言うと「お節介」な方だなあと思います。だって、考えてもみてください。ガリラヤ湖のほとりで、大勢の群衆を前にイエス様はたくさんお話しをしていました。しかしシモン・ペトロたちの耳にはその言葉は届きませんでした。彼らはうつむき、一心に網を洗っていました。徹夜で働いたのです。魚がたくさんとれていたら体は元気だったでしょう。しかしまったく取れなかったのです。早く帰って寝たい。そう思っていたでしょう。

 そこに、イエス様は乗り込んでこられたのです。舟を沖に漕ぎなさい。そこでわたしは群衆に語るから。みなさんだったらどうでしょうか。もう一度、沖に行きますか。眠くて仕方がないのに、こんなところにいたくもないのに、「はい、わかりました。舟を沖にやりましょう」なんて言えるでしょうか。わたしだったら断ったと思います。いや、断らない場合もあります。それは、順番が逆のときです。先に大量の魚を与えてくれたら、ちょっとは元気になって、じゃあ少し協力しましょうとなったかもしれません。あるいはあまり信用できなくても、「絶対あとで魚がたくさんとれるから」と約束してくれたら、少しの時間だったらいいかなとも思えます。

 シモン・ペトロはそんな約束やしるしなど何もなかったのに、ただイエス様と一緒に沖に向かいました。ここって、すごく大事だと思うんです。わたしたちも同じなんですね。イエス様に従うってことは、お金持ちになることでも、病気から解放されることでも、難しい試験に合格することでもありません。ただイエス様と一緒に進む、そういうことなんです。

 イエス様はシモン・ペトロと共に沖に行きました。そして舟の上から岸辺にいる群衆を目掛けて語り始めました。でもよく考えてください。イエス様のみ言葉を、一番近くで聞いていたのは誰でしょうか。それはほかならぬペトロなのです。ペトロは特等席で、イエス様の説教を聞くことになりました。先ほど、わたしはこのイエス様の行動を「お節介」だと言いました。その理由はここにあります。疲れ切ったペトロに、いや、疲れ切ったペトロにだからこそ、神さまの恵みを、愛を伝えたいと思われたのかもしれません。「そんなあなただから、ほおってはおけない」、このメッセージはペトロだけではなくわたしたちに向けても届けられています。人生の、本当にどうしようもないときに来られる方。わたしたちの日常に、不意に介入して来られる方、それがイエス様なのです。

 物語には続きがあります。夜中網を投げ続けていたのに取れなかった魚が、イエス様の指示通りに網を下ろしたら大量になった。ペトロは二そうの舟が魚でいっぱいになったのを見て、恐れた。そんなペトロに対し、イエス様は言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。聖書を読んでいくと、実際にペトロが立派な「人間をとる漁師」になれたかと言うと、疑問は残ります。イエス様の言葉を遮ったり、勘違いしたり、お祈りの間に居眠りしたり、挙句の果てには十字架に向かわれるイエス様のことを「知らない」と否定したり、とてもではないですが、そうは思えません。

 不完全なままで、ずっとイエス様について行った。それがペトロを始めとする弟子たちなのだと思います。そう考えると、イエス様にとっての弟子とは、自分と一緒にいて、飲み食いし、笑い合い、泣き合い、いろんな思いを共有する仲間、デコボコがあり、でも共に歩む、そんな存在なのかもしれません。

 コロナがわたしたちの生活に入り込んできて、もう2年になります。わたしたちには何ができるのだろう。いろいろ考えてきました。教会で、皆さんと一緒に、どんなことができるのか。家から出ることができない方を覚えるときに、わたしたちは何をすべきか。でも肩ひじ張って、少し背伸びしても、なかなかうまくいかないんですね。わたしたちだけではできないことがたくさんあるからです。しかしイエス様が一緒にいてくださったら、わたしたちにはたくさんのことができるはずです。

 イエス様の弟子になるというのは、そういうことなのかもしれません。イエス様と共に歩むことで、わたしたちの働きが祝福されるのです。イエス様が一緒にいてくださるから、網には舟一杯の魚がかかるのです。