2021年4月25日<復活節第4主日>説教

「良い羊飼い」

YouTube動画はこちらから

ヨハネによる福音書10章11~16節

 またもや政府より関西圏に緊急事態宣言が出されました。わたしたちの教会も、イースターの後から再び「み言葉の礼拝」に切り替えられていますが、今日の主日からさらに礼拝奉仕の当番もなくす決断をいたしました。これは、信徒の皆さんに「来ないでください」という趣旨ではなく、「人の多いところに外出するのは怖いけれども、当番の義務を果たすためにがんばって礼拝に出席しなければ」と思われる方々に、「大丈夫ですよ、どうぞおうちでお祈りください。奉仕はその場にいる人たちでやれますし、たとえどなたもできなくても神さまは分かってくださいます」ということを改めてお知らせするためです。しばらく教会へ行けなくったって、わたしたちが神さまの子どもであり、わたしたちみんな家族であることには変わりありません。わたしたちも遠くに住む年老いた双方の両親にずっと会えてなくて、子どもたちもとても寂しがっていますが、だからと言って、家族のきずなが切れるわけではありません。顔は見えなくても互いを想い合うことできずなの強さをいつも以上に確かめている気がします。

 大丈夫、またみんな一緒に、喜びいっぱいに主の食卓を囲む日がまた必ずやってきます。そのことを信じて希望を持って今のこの時期を共に耐え忍びたいと思います。わたしがチャプレンを務める京都の平安女学院中高では毎年、イースターの季節であるこの4月に「球根の中には」という賛美歌を歌います。去年の今頃は、学校は完全に休校となり、イースターもお祝いできなかったのですが、今年はみんなで歌い、その歌詞を例年以上に噛みしめました。

            球根の中には 花が秘められ さなぎの中から いのちはばたく

            寒い冬の中 春は目覚める その日その時は ただ神が知る

 わたしたちはみんな、死んだ木の根っこのような塊から芽が出て花が咲き、枯れた葉っぱのようなさなぎが蝶となり、氷に閉ざされた冬はやがて終わり春が来るということを知っています。けれども、それがいつかということは神様にしか分かりません。「ひらけゴマ!」とか「春よ来い!」というような呪文はわたしたちには誰一人としてかけることができないのです。でも、神さまはその日その時、一番良い時をわたしたちのために用意してくださっている、そう信じて、すべてを委ねて待つ。それが信仰です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)

 そんな信仰を改めて思いたい今日の日にぴったりのすばらしい福音書箇所が与えられました。新共同訳聖書には、「イエスは良い羊飼い」という小見出しが付けられた箇所です。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10章14~15節)

 良い羊飼いは自分の羊を知っている、羊も羊飼いを知っている。羊飼いはそれらの羊のために命を捨てるというのです。ここに「知る」という言葉が出てきます。羊飼いは羊の何を知っているのでしょうか。羊って、ちょっと想像すると分かりますが、おそらくそんなに個性はありません。パッと見、みんな同じです。顔かたち、足の長さ、毛の色、毛の量、鳴き方、それらにそれほど目立った違いはないでしょう。でも、良い羊飼いはその一匹一匹を知っているというのです。

 今、わたしは学校現場にいて、今月からまた新しい聖書の授業のクラスをいくつか持っていますが、一クラス30名足らずの生徒たちの名前と顔をなかなか覚えられません。週に一度しか会わないのと、みんな制服を着て、ほとんどがロングでストレートの黒髪であり、その上マスクをしています。飛沫感染を予防するために、ディスカッションを取り入れた授業は難しいため、先生が一方的に話をする講義形式になっています。声も聞かないので本当になかなか覚えづらい。席順で覚えようとしますが、席替えしたらまた初めからやり直しです。でも、毎年その中には、比較的早い時期に覚えてしまう生徒たちがいます。それは、わたしが顧問をするクラブに入部したり、礼拝奉仕をする礼拝係だったり、授業後に質問に来たり、わざわざチャプレン室へたわいもないおしゃべりをしに来る生徒たちです。そう、それらの生徒たちをわたしは知っています。なぜならその一人の生徒とわたしの間に関係性ができるからです。関わりができるからです。

 良い羊飼いが羊を「知っている」というのは、羊たちの生年月日や血液型、個体識別番号やら見た目の特徴を知っているというのではなく、個々の羊との間に「あなたとわたし」という関係性を持っているということなのです。まさに親子のように、そして親友のように。だから、良い羊飼いは羊のために命を捨てることができるのです。それほどまでに、一匹一匹を自分のように、いや自分以上に愛し、大切に、大切に思っているのです。

 そして、羊飼いの囲いの中に入ってきた羊たちは、羊飼いが自分たちのすべてを知り、生きているすべての瞬間において羊飼いが関わってくれていること、うれしいことがあれば共に喜び、悲しいことがあれば共に泣いてくれることを知っています。ですから、何があっても大丈夫、今自分の思い通りにならなくとも、きっと羊飼いは一番良いようにしてくれると信じます。全幅の信頼を置いて、「その日、その時」を待つことができるのです。

 これが、神とわたしたちの関係です。確かに、羊になりきるのは簡単なようで、なかなか大変です。わたしたちはすぐ疑いたくなりますし、神よりも自分を信じたくなるからです。でも、羊の素朴さを見倣いたいと思います。羊は、ふわふわでかわいいイメージがありますが、実は目が悪く、方向音痴で、その上どんくさくて一度転んだらなかなか自力で立ち上がることができない情けない動物なのだそうです。羊はそんな自分をよく知っています。羊飼いなしでは生きていけないことを知っているから、素直に従うのです。そんな幼子が持つような純朴さ、素直さを取り戻しなさい、聖書はそう伝えています。

 そして、わたしたちも忘れてはならないのが、「囲いに入っていないほかの羊」をも羊飼いは知り、気に留め、導いておられるという事実です。その羊飼いの愛にまだ気づいていない囲いの外にいる羊たちにわたしたちができることは何でしょうか。球根から芽が出て花が咲く「その日その時」を待つ、産みの苦しみの只中である今こそ、その人たちに「おいで、こっちだよ」と手招きができますように。