2022年2月13日<顕現後第6主日>説教

「平らな所」

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 ルカによる福音書6章17~26節

 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。今日の聖書の中には、このような言葉があります。ここを聞いて、「あれ、心の貧しい人々じゃなかったっけ」と思う方がおられるかもしれません。「心の貧しい人々は、幸いである」から始まるのは、マタイによる福音書5章に書かれた「山上の説教」と呼ばれるものです。今日読まれたのはルカによる福音書ですが、「心の」がある、ないだけではなく、大きな違いがあります。それは、イエス様がどこで語られたかということです。

 今日の福音書の最初のところに、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書かれています。「山から下りて」、そして「平らな所に」とあります。そのことからこのルカバージョンは「平地の説教」と呼ばれることもあります。 山上と平地、単に場所が違うだけだと思うかもしれません。でもそこには大事な違い、それもわたしたち一人ひとりに関係する大切な内容が含まれています。そのことを今日はご一緒に考えてみたいと思います。

 わたしたちが使っている聖書には、四つの福音書がおさめられています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。それぞれ少しずつ違っています。それはそれぞれの福音書が誰に対して書かれたのかということが、影響していくのです。例えばマタイ、この福音書はユダヤ人を相手に書かれたものです。ですから預言が成就したといった言葉が多く出てきます。旧約聖書からのつながりが大事にされています。それに対してルカは、異邦人、つまりユダヤ人以外の人たちに対して書かれました。ですから罪の悔い改めや、立場の逆転、どんでん返しなどがよく見られます。それぞれの対象に対して、み言葉を伝えようとしたのです。

 マタイが対象としたユダヤ人は選民、つまり選ばれた民として自分たちのことを捉えてきました。神さまは自分たちを選ばれた。そのおごりというか、傲慢な考えが、知らず知らずのうちにあったかもしれません。また神さまはどのような形で自分たちに対して関わろうとしているのか、そこにユダヤ的な考え方も反映されているのです。

 少し長くなりましたが、マタイ福音書で山上の説教と呼ばれる場面がルカ福音書では平地の説教となったこと、そこにはわたしたちの信仰のあり方が問われる大きな意味が隠されています。山というのは、ユダヤ人にとっては大切な場所でした。モーセが十戒を受け取ったのも山でしたし、イエス様の姿が真っ白に変わったのも山でした。山は神さまに近い場所だと考えられていました。そしてそこに上ることができるのは、それが許された人たちだけでした。

 考えてみてください。イエス様はガリラヤ湖のほとりで人々に話してこられた。それをどうしていきなり山に登られたのか。違和感はないでしょうか。イエス様の周りにいたのは病気の人や歩くのも大変な人です。健康で自分の力で歩けるような人ではないんです。山の上、それは神さまが顕現される場所でした。ユダヤ人に伝えるには、その描写が必要だったのでしょう。しかしルカ福音書は、異邦人、つまり神さまはあなたたちには目を向けないと言われていた人たちに向けて書かれた。地べたを這いずり、誰も助けてくれない、手を差し伸べてもくれないそんな人たちを「神さまは救うのだ」と伝えたかったのです。

 イエス様が平地に立たれる意味、それはわたしたちと同じ目線に立つということです。わたしたちの悲しみに気づき、手を取り、一緒に涙を流す。それがイエス様です。そのことをわたしたちは忘れてはならないのです。

 しかし残念なことに、教会はその歴史の中で、何度も勘違いをしてきました。神さまをピラミッドのような三角形の頂点に見立て、自分たち教会は人々と神さまとを繋ぐ役割があると思っていました。山の中腹にいるようなものです。神さまから語りかけられるのは、まずは自分たちだけ。だから教会は、福音を伝えられていないかわいそうな人たちに教えてあげないといけない。傲慢ですよね。何様かという気がします。植民地支配など、そういう感じだったのでしょう。

 でもわたしたちは、今、自分たちにも問いかけないといけないと思います。それは過去の話なのだろうか。今、わたしたちの教会は、高いところから見下していないだろうか。「神さまのことを知らない、かわいそうな人たちに伝えてあげましょう」とはなっていないか。立地的には、確かに見下しているように感じます。でもわたしたちの心までもが、見下してはダメなのです。「ここに来たらいいことがあるよ」ではなく、わたしたちがこの足で、「よい知らせ」を伝えに行かないといけないのです。

 わたしが神学生のときに、釜ヶ崎に実習に行く機会がありました。そのときに本田哲朗神父というカトリックの司祭さんと話す機会がありました。彼はずっと釜ヶ崎で活動されており、「小さくされた人々のための福音」という本も書かれています。

 彼はわたしたち神学生に、いきなりこう言いました。「言っとくけど、教会になんて神はいないよ」。今になって思うと、彼の言わんとすることが少しは理解できます。しかし当時は衝撃的でした。これから現場に向かおうという時期に、そんなこと言われてもと。

 教会って何?その問いはよく聞かれます。エフェソの信徒への手紙には、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と書かれています。イエス様が共にいなければ、教会は単なる建物です。博物館です。人はたくさん集まるかもしれない。立派な建物やパイプオルガンに感嘆の声を上げるかもしれない。でもそこにイエス様がいなければ、何の意味があるのでしょうか。敷居を高くすればするほど、小さくされた人と共にいるイエス様さえも、わたしたちは平気で追い出してしまっているのです。

 わたしたちの教会はお高くとまっていないでしょうか。門は広く開いているでしょうか。どんな人も受け入れ、一緒に語り、一緒に喜び、一緒に泣いているでしょうか。幸いなのは、貧しい人々です。今飢えている人々です。今泣いている人々です。物質的にも、精神的にも満たされていない人たち。そのような人たちが祝福されるところ、それが教会です。

 イエス様が山から下りて来られたのですから、わたしたちも山を目指すのではなく人々の間に向かいましょう。イエス様が平地に立たれたのですから、わたしたちも外に向かい、歩いて行きましょう。イエス様がわたしたちと共に傷を負い、重荷を背負われたのですから、わたしたちも階段の下にいる人たちと共に歩みましょう。

 わたしたちの教会が、本当の「開かれた教会」となるように、わたしたち一人ひとり、神さまの声を聞きながら、イエス様と共に進んでまいりましょう。