「不完全な者だから」
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マタイによる福音書5章21~24、27~30、33~37節
わたしたちの身の周りには、いろんな決まりがあります。校則や交通規則、法律など。なぜ人は、様々な決まりを作るのでしょうか。大きな理由は、人の行動を一定の枠に入れ、規制をしたいからだと思います。人がすべて自由きままに行動すると、それはそれで楽かもしれません。しかしそれでは、社会が成り立ちません。真っ昼間に東向商店街を車で走行したら、危なくてしょうがありません。店に並んでいる商品を自由に手に取り、手当たり次第に口に運んでいたら、商売人はたまったものではないのです。
人は様々な決まりを作ることによって、「こういうことをしてはならない」という禁止事項を設けました。それと同時に、「こういうことをしなさい」というものもつくりました。
聖書の中にも、同じように様々な戒めが書かれています。モーセが神さまから授けられた十戒を始めとして、レビ記に出てくる様々な決まりごとはとても細かく、読んでいるだけで大変だなあと感じさせられます。十戒については、洗礼準備のときに学ぶ教会問答でも取り上げられております。ですからきっとみなさん、聞いたことがあるのではないでしょうか。もしかしたら暗記している方もおられるかもしれません。
簡単に10の戒めを言いますと、ほかに神があってはならない。いかなる像も造ってはならない。主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。あなたの父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。むさぼってはならない。
ユダヤの人たち、特に律法学者やファリサイ派といった人たちは、この決まりを守ることをとても大切にしました。例えば、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めです。ユダヤ教では土曜日を安息日と定めています。その日には、労働はもちろんのこと、火をおこすことも、長い距離を歩くことも禁じられていました。ですから人々は、前日には食料を保存しておくなど、安息日には何もしないでいいように準備していました。今でもユダヤ人が多く住むマンションでは、エレベータが自動的にすべての階に停まるようになっているそうです。それはエレベータの停止ボタンを押すことも労働に含まれるからだそうです。
しかし週に一度、何もしないで過ごすことができる人とは、ある程度余裕のある人に限られていました。日雇い労働者や毎日漁や狩りで生計を立てていた人、農地を管理している人、羊飼いなど、安息日を守りたくても守れない人は大勢いたわけです。
安息日を守ることのできないその人たちのことを、人々は罪人と呼びました。そして安息日を守る人たちは、罪人と呼ばれるその人たちを共同体から排除していきました。律法学者やファリサイ派にとって、それが十戒や律法などの「正しい用い方」だったのです。一見すると、何も間違っていないようにも思います。決まりが与えられ、それを守るように頑張る。ちゃんと守れた人はほめられる。でもできなかった人は叱られる。わたしたちの生活の中にある様々な決まりはそうでしょう。しかし聖書に出てくる神さまから与えられた決まりは、果たしてそれと同じなのでしょうか。
今日の箇所で、イエス様はこのように言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
十戒の「殺してはならない」という掟。わたしたちを含め多くの人は、「この掟は守っている」と思っていることでしょう。しかしイエス様は、その掟をもっと厳しいものに引き上げます。腹を立て、「ばか」と言う者も、殺しているのと同じなのだと言うのです。
どうでしょうか。これのイエス様の言葉を聞いて、「わたしは大丈夫。守っている」と思える方が、どれくらいおられるでしょうか。正直に言います。わたしは何度も罪を犯しています。しょっちゅう腹を立て、愚痴を言う自分の姿をよく知っています。
「実行することができない決まり」。もし聖書に書かれている律法がそのようなものだとしたら、その律法は何のためにわたしたちに与えられたのでしょうか。ローマの信徒への手紙3章20節で、パウロはこのように書いています。
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
「正しい者はいない。一人もいない」と書いた後、このようにパウロは書きました。律法によっては、罪の自覚しか生じない。つまり、どうしても罪から抜け出ることのできない自分に気づかされるだけだということなのです。
中高生の頃に通っていた教会では、何度も言われました。「あなたがたは罪人だ」と。そのころは意味が分からなかったし、反発もしました。でもイエス様の言葉を読む中で、「そうか」という気持ちになっていきました。
そして、ここからが大事なことです。「罪の自覚」が生じたままでは、そこで終わってしまいます。最初の方で、教会問答の話をしました。教会問答には問8として十戒のことが書かれていました。そして問10として、このような質問がなされます。「あなたはこの戒めを、人の力で守られると思いますか」。この問いに対する答えはこうです。「人の力だけでは守られません。神の助けが必要です」。
実はこれが、キリスト教にとって一番大切なことなんですね。自分の力だけでは生きていけないことを知り、神さまに助けを求め、そして神さまと共に歩む。このことを、わたしたちはいつも心に留めておく必要があるのです。
聖書に書かれている様々な決まり、それが書かれているのは、人を枠の中に押し込めるためでも、人を裁くためでもありません。ましてや人を陥れるものでもないのです。つまりわたしたちの周りにある法律とは、まったく違うものなのです。わたしたちは自らの弱さを知り、神さまを求めます。そのわたしたちを支え、導くために、イエス様は遣わされました。イエス様はわたしたちの罪を知りながら、それを裁くのではなく、そのままの姿で受け入れてくださるのです。そしてその弱さを認め合い、おぎない合っていくのが教会です。わたしたちの中には、誰一人完全な人はいません。それぞれが不完全で、足りない者だからこそ、お互いに交わりながら支え合っていくことが必要なのです。
そしてその真ん中には、イエス様がいてくださる。そのことを心に留め、歩んでまいりましょう。