2025年11月9日<聖霊降臨後第22主日>説教

「神さまに生かされる」

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 ルカによる福音書20章27、34~38節

 今日、旧約聖書ではヨブ記19章23~27節が読まれました。ヨブ記を最初から最後まで読まれたことがある方は、どれくらいおられるでしょうか。わたしは何度も読んでおりますが、読むたびに不条理といいますか、何とも言えない気持ちになる物語です。あらすじはこうです。ウツという場所にヨブという名前の人がいました。彼は無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたそうです。そして家族や財産に恵まれていました。神さまの祝福をたくさん受けていたということです。ところがある日、神さまがヨブのことをサタンの前で褒めたときに、サタンはこう言うのです。

 「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」。

 このサタンの挑戦的な言葉を聞いて、神さまはサタンに対し、ヨブにだけは手を出さないことを条件に、彼の財産を奪ってよいという許可を出します。その結果、サタンはヨブの財産、そして子どもたちの命まで奪ってしまうのです。さらにそれでも神さまを呪わないヨブに対し、サタンはヨブの体までむしばみます。ヨブはそれでも神さまを呪いませんでしたが、3人の友人が、その苦しみは神さまによる罰だと主張するのに対して、ヨブは身の潔白を語り続けます。そしてヨブは神さまに疑問を投げかけていくんですね。ヨブ記の大半はこの議論で終始します。さらに終盤にはエリフという若者も加わり、神さまの偉大さと人間の理解の限界を説きます。そして最後には神さまが嵐の中から現れ、その偉大さをヨブに示します。その結果ヨブは神さまの前にひれ伏し、自分の小ささを認めるというお話です。一見すると、理不尽な物語です。しかしそこには、正しい人にも良くないこと、災いが起きるということ、そしてその中においても、神さまに信頼を置くということが大切だと語られているのです。

 なかなか読む機会のないヨブ記ですが、お葬式のときには最初の「聖語」の中で2か所読まれます。一つはヨブ記1章21節の言葉です。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というものです。そしてもう一か所が、今日の旧約聖書の中でも読まれた箇所です。ヨブ記19章25~26節です。お読みします。

 「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」。

 ヨブはその苦しみの中で、たとえ肉体が滅んでしまったとしても、わたしを贖う方は生きておられ、必ず後の日に地の上に立たれることを、そして自分にも神さまを仰ぎ見る日が来ることを「知っている」と言うのです。ヨブはわたしたちには想像のできないほどの苦しみに陥りました。しかしその中で神さまの偉大さを知り、その神さまにすべてをお委ねすることの大切さに気付かされたのです。その言葉がお葬式に用いられていること、とても意味のあることではないでしょうか。

 さて、イエス様が活動されていた時代においても、復活についてはいろいろな議論がありました。今日の福音書も、「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた」という言葉から始まっています。サドカイ派とは、旧約聖書の中でも創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記、いわゆる律法といわれるものしか聖典として認めない人たちでした。したがってそこに記載のない「復活」ということについては否定していたようです。それに対して聖書によく出てくるファリサイ派という人たちは、復活を認めていました。

 イエス様も受難予告の中で、「三日目に復活することになっている」という言葉を残していますので、復活はあるのだと教えていたようです。そこでサドカイ派の人たちは、矛盾を突くような議論をイエス様に投げかけてきたのです。

 今日の福音書の中でカッコに入れられている28~33節には、その矛盾を突く問いかけが書かれています。当時、長男に妻がいて、子どもが生まれる前にその長男が亡くなってしまったら、次男がその妻と結婚しなければならない、「レビラート婚」という制度がありました。子孫を残さないと家がつぶれるため、定められた決まりです。サドカイ派の人たちはイエス様に聞くのです。次男のあと、同じように三男、四男、最後は七人目の息子まで同じ女性を妻にしたとしたら、復活したときには、誰と誰が婚姻関係になるのかと。生前の関係が続いていくとしたら、重婚になるじゃないか、そういうことでしょうか。そもそも七人も夫が変わっていく、その妻の感情は無視なのかとは思いますが、時代背景や社会状況を考えると、その女性が生きていくためには必要なことだったのでしょう。しかしつらかっただろうなという思いはあります。「その人は誰の妻ですか?」、そう真面目な顔をして問いかけてくるサドカイ派に対して、ひょっとしたらイエス様は笑いをこらえてこう思っていたかもしれません。「そんな、誰だっていいじゃないか。みんな仲良くしようよ」と。

 神さまの思いとわたしたちの想像とは、もしかしたら大きくかけ離れているのかもしれません。神さまはわたしたちの想像力に収まるような、小さなお方ではありません。ではわたしたちは、どのように考えればいいのでしょうか。

 イエス様はこう言われます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。そして「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。簡単に言うと、こうです。わたしたちは神さまの子として生かされる。それが神さまのみ心だというのです。神さまはわたしたちを愛するがあまり、独り子であるイエス様をわたしたちのもとに遣わされました。それはイエス様の十字架の死と復活によって、わたしたちに本当の命を与えるためです。

 自分たちの罪のために神さまの前では本来死んだものであったはずのわたしたちが、イエス様の十字架の血によって罪赦され、もう一度神さまとの正しい関係に戻ることができた。イエス様が復活なさったことによって、わたしたちが今、神さまの導きによって歩くことができる。それこそが「復活の命に与る」ということではないでしょうか。

 具体的にどのように、ということはわたしたち人間にはわかりません。ヨブのように、突然不条理な状況に陥ることもあるでしょう。しかし根底には、神さまの愛が流れている。神さまはわたしたちを決して見捨てはしないと約束された。このことをいつも心に留めていきたいと思います。