2025年2月9日<顕現後第5主日>説教

「共に歩む」

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 ルカによる福音書5章1~11節

 今日読まれた福音書の物語は、イエス様がシモン・ペトロを弟子にする、そのようなものでした。ただこの物語ですが、わたしたちが普通に考える弟子物語とは少し違う、そのようにも思わされます。

 そもそもイエス様は、何のためにわたしたちの間に来られたのか。今は顕現節という期節です。顕現とは神さまがそのお恵みを、わたしたちに見える形で現されることです。今日の福音書に書かれた出来事は、神さまがわたしたちとどう関わろうとされているのか、そのことなのです。つまり、「漁師を弟子とする」、その出来事の中に神さまの思いが詰まっているということなんですね。神さまはイエス様を通して、弟子をつくりたかった。ではその弟子って一体どういう人なの、そういうことになるわけです。

 福音書の物語を深く読む前に、少し旧約聖書と使徒書にも目を向けてみましょう。旧約聖書の士師記6章11節から24節にはギデオンの物語が、そして使徒書ではコリントの信徒への手紙一15章1節から11節に、パウロの書いた言葉が読まれました。

 まずギデオンです。士師記というのは旧約の時代、イスラエルの人々を士師という人が導いていた頃、その士師に任命された人たちの働きを記したものです。さぞかし勇敢で、またそのような資質のある、自信に満ち溢れた人がなっていたのだろうと思いますが、どうもそうでもなかったようです。主なる神さまはギデオンに対して、このように告げました。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」。しかしギデオンはこう言い返すのです。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」。これを謙遜と取ることもできるかもしれませんが、実際ギデオンは力もなく、また自分が士師、つまりイスラエルの人々を導くだけの器ではないことを自覚していました。小さく弱い、そんな自分であることを知っていたのです。

 また使徒書のパウロ、彼はこのように手紙に書いています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。パウロというと自信満々で、信仰に熱く、何の曇りもない素晴らしい人物だというイメージを持つ方もおられるかもしれませんが、彼は復活のイエス様に出会って回心する前、教会を迫害していました。本当であれば自分なんか、神さまの元で働くことなど到底できない。そのことをよく知っていながら、しかし神さまの恵みに生かされて、人々に福音を伝えていったのです。ギデオン同様、本当であればふさわしくない、そんな人物です。

 そして福音書の物語です。イエス様の元に、大勢の群衆が押し寄せていました。イエス様は小舟に乗って、湖の上から教えようとされます。ちょうど湖の方から風が吹いていたのでしょう。岸にいる人たちには、ちょうど声が風に乗って、いい感じで聞こえそうです。とてもいいアイデアだと思います。

 しかしそこにいたのは、失意の中にいたペトロでした。後で書かれていますが、彼は夜通し苦労したものの、魚がまったく取れなかったのです。しかしそのことを知ってか知らずか、イエス様はペトロの舟に乗り込み、岸から少し漕ぎ出すように言われます。みなさん、想像してください。何かをしようとして夜通し苦労しても、何の成果もあげられなかった。徹夜して何かをすることは、そんなにないかもしれません。でもどれだけ努力しても、心の底から頑張っても、どうしようもない。あと一歩どころか、すべてが水の泡。あの時間はなんだったのだろうと思うことはいくらでもあるわけです。

 教会の宣教というのも、もしかしたらその繰り返しなのかもしれません。伝道集会や様々な集まり、イベントや試み、コンサートやバザー等々、いろんなことを試しては壁にぶつかる。来週わたしたちは堅信受領者総会をおこないますが、いつも様々な課題が突き付けられる、そんな現実があるのです。

 「もうダメです、イエス様。わたしたちはずっと、ずっと、苦労をしてきましたが、何もとれませんでした」。その言葉は、実はわたしたちのものなのです。どうしようもなく疲弊し、くたびれ、明日への希望が見えない。何をどうしていいのかわからない。その叫びをイエス様はしかし、必ず聞いてくださるのです。

 イエス様は、舟に乗り込んで来られました。そして、「沖に漕ぎ出しなさい」と言われます。言われるがままにイエス様と共にペトロが漕ぎ出したとき、投げ出した網にはおびただしい魚がかかります。それを見たシモン・ペトロはイエス様を畏れ、すべてを捨ててイエス様に従ったということです。

 イエス様の弟子、それは自分だけで何かができる人ではありません。特別に優れた人でもなければ、何か立派な人でもありません。ギデオンやパウロがそうであったように、不完全で欠けの多い人物。神さまはそのような人物を用いてくださるのです。

 ただイエス様が共にいて下さることを喜び、そしてイエス様と共に歩もうとする人のこと。それはまさしく、わたしたち一人ひとりのことです。イエス様は、そんな弟子たち、わたしたちも含めて弟子たちに対して、二つのことをお命じになりました。

 一つは人々に洗礼を授けていきなさいということ。そして二つ目は、聖餐、主の食卓を囲むことを大事にしなさいということです。神さまの恵みに与かる人が与えられ、共に歩んでいくことができることを、イエス様と共に喜ぶ。礼拝の中で食卓を囲み、一緒にパンとぶどう酒に与かることで、イエス様がいつも一緒にいて下さることを感じる。

 その交わりを広げていくことが、宣教なのです。共に喜び、共に涙を流す。神さま、ありがとうと大きな声で賛美できる仲間が与えられ、そして一緒に神さまの恵みに感謝する。その交わりを豊かにするために、イエス様はわたしたちの舟に乗りこまれ、「一緒に沖にこぎ出そう」と導いてくださるのです。

 その声に聞き、歩んでいきましょう。わたしたちだけだと、心もとないかもしれません。牧師を含め、本当に小さな一人ひとりです。でもこの真ん中には、イエス様がおられる。いつも一緒にいてくださる。

 だから、大丈夫。自分に頼る必要などないのです。自分を捨て、ただ神さまにすべてをお委ねして、これからも歩んでいくことができますように、お祈りを続けてまいりましょう。