2022年8月7日<聖霊降臨後第9主日(特定14)>説教

「あきらめない」

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 ルカによる福音書12章32~40節

 今年、私たちは終戦77年を迎えます。教会では、8月6日広島に原爆が落とされた8時15分、そして、8月9日長崎が被爆した11時2分に合わせて、平和礼拝を行い、参加者それぞれが鐘を鳴らして平和の願いを込めた祈りをささげます。今年も信徒の皆さんが少しずつ祈りを込めて折った折り鶴が大きな千羽鶴となって、長崎の教会へ送られ、私たちの祭壇にも今飾られています。また今年の秋には、例年行われる子ども祝福式を少し拡大して、奈良キリキッズフェスティバルという催しが企画されていますが、そこでのテーマは「平和」です。私たちが、改めて平和ってなんだろう、この世界に平和を実現するために何ができるのだろうということを考え、何か行動に移す一歩になればと願っています。 

  77年間、幸いなことに私たちは戦争を経験せずにすみました。それは、77年前に、食べる物もなく、愛する人と引き裂かれ、思想を統制され、敵を憎むよう教えられ、苦しみ、悲しみ、悔しさの涙を流し、戦争がどれほど残虐で愚かなものかを身をもって知った人々が必死で平和の尊さを後世に伝え、守ってきてくれたからです。私たちはその先人たちに感謝するとともに、その人たちの思いを真剣に引き継ぐ覚悟を持たなければと思います。特に、ロシアのウクライナ侵攻から半年になろうとする今、クリスチャンである私たちは、神さまが造られたこの地球全体を私たちの家と捉え、同居人、わたしたちの家族が今苦しんでいる現実を受け止めること、そして、力を合わせて平和実現への道を模索し、軍備の増強ではなく、戦争を起こさない世界、愛に溢れた世界の実現を考えねばなりません。 

  さて、では平和とは何なのでしょうか。それが戦争のない状態のみを表わす言葉でないことを私たちは知っています。爆弾が落ちてくる可能性はなくても、この世界は憎しみと悲しみに溢れています。食べるものが十分にない人、この猛暑の中、涼む場所さえ与えられていない人、心に病を患い前を向いて歩めない人、家庭内の暴力や虐待、ハラスメント、誹謗中傷そしてやいじめに苦しむ大人と子どもたち。マイノリティーであるがゆえに受ける差別と偏見を前に、生きる希望をなくした人たちもいます。そして、誰をも信じることができず、自分は愛される価値のない人間であると決めてしまった人もいるでしょう。戦争はなくても、平和な世界からほど遠い場所に今私たちは暮らしているように感じます。 

  少し前には、YouTubeの説教動画のコメント欄に一つの質問が寄せられました。「教えてください。なぜ神は人を造ったのでしょうか。この世には必ず苦しみがあるのに、それでも人間は生まれてくるのはなぜなのでしょう? これは神から人間に課せられた試練なのでしょうか?」確かにそう思いたくなる現実があります。画面を通して容赦なく入ってくる悲しいニュースを前に、こんな悲惨な世の中に生まれてくる価値はあるのだろうかと思わせられ、私たちは深くため息をつき、あきらめの境地に入るのです。 

 チャプレンとして学校に赴任した1年目に、あるベテランの先生が会議の中で次のように発言されたこともあります。「キリスト教学校であろうがなかろうが、教員がどう頑張ろうが、人間社会にいじめというものはなくならない。それをなくす努力じゃなくて、それがあったときにどう対処するかに重点を置くべきだ。」もうあきらめろと。正論なのでしょうが、私は非常に悲しくなりました。そうなのでしょうか。

 今日の福音書箇所の始めにイエスは言われています。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」実はイエスはこの言葉のすぐ前に、「思い悩むな」ということを弟子たちに語っておられるのです。当時のイスラエルの人々の多くは、それは苦しい生活を強いられていました。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と主の祈りにある通りです。明日は食べるものあるだろうか、着る服があるだろうか、眠る場所があるだろうか、そんな切実な問題を目の前に心配で夜も眠れない、そんな日々が続いていたのです。今の私たちのほとんどがそうであるように、遠い未来を憂いてため息をつくのでなく、今今のことを嘆き悲しみ、心配に心をかき乱していたのです。そんな人々に対し、イエスは言われました。「心配しなくていい。神さまはすべてご存じだ。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、あなたが必要としているものはすべて加えて与えられる。恐れるな、神さまはあなたがたが求めるなら喜んで神の国を与えてくださる。」神の国とはなんでしょうか。それは「神の支配」とも訳すことができますが、人間ではなく神さまが支配される愛と平和に満ちた世界のことです。 

  この「神の国」について、カトリックの司祭、片柳弘史神父はご自身の「何を信じて生きるのか」という本の中で、次のように説明しておられます。それは「すべての人が神の子として大切にされ、自分らしく生きられる世界」なのだと。分かりやすく、その通りだと思います。すべての人が神の子として大切にされ、自分らしく生きられる世界、まずこの世界を何より先に求めなさいとイエスは言われている。明日食べるものよりも、着るものよりも、住む場所よりも。仕事よりも、お給料よりも、偉くなることよりも。慰められることよりも、理解されることよりも、愛されることよりも、まず、この神の国を求めなさいと。そうすれば、必要なことはすべて満たされる。恐れず、求めなさい。神さまは喜んで神の国をくださると。 

  求めるとは、すなわち、神さまを信じることです。神さまはわたしを愛してくださっている、だから必ずわたしに必要な良いものを与えてくださる。そう信じることです。本日の聖書日課の旧約聖書と使徒書のテーマは、信仰です。創世記には、イスラエル民族の父とされるアブラハムが(このときはまだアブラムと呼ばれていますが)、自分と妻はもう年老いて子どももいないのに、神さまの「あなたの子孫は、星の数のようになる」という言葉を信じ、その信仰が神に認められたとあります。また、ヘブライ人の手紙11章は、私たち信仰者が大切にしたい有名な言葉で始まります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」私たちは、神の国、すべての人が神の子として大切にされ、自分らしく生きられる世界が、今は見えないかもしれない、けれども神の助けによって必ず実現すると信じなければならないのです。神さまは私たちに信じてほしいと願っておられるのです。 

  そして、この信じるという行為に加えて、ルカによる福音書ではもう一つイエスが言われていることがあります。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」これは、どういうことでしょうか。それは決して今話題になっている新興宗教のように、すべてを献金しなさい、財布を捨ててしまいなさいということではありません。そうではなく、本当に大切なものは何か、何が神さまに喜ばれることなのか見極めなさい、ということです。自分のためではなく、神さまのために、すなわち他者のために生きなさい、ということです。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」言い換えれば、あなたがこの世で大切にしているものに心を向けるのでなく、神さまが大切にされるものに心を向けなさい、ということです。そこに神の国があるのだと。 

  あきらめない。私たちは今日このメッセージを聞いています。平和は必ず実現する。神の国は必ず来る。すべての人が神の子として大切にされ、自分らしく生きられる世界は必ず実現できる。神を信じなさい、そして行動しなさい。小さなことでもいい、どのようにでもいい、自分のためでなく、他者のためにあなたのいのちを使いなさい。そして、平和の器となりなさい。神さまはそう私たち一人ひとりに語っておられます。神の国は遠い未来に来るものではなく、今ある苦しみの中に、悲しみの中に実現されるのです。この神の国を見るために、この神の国を味わうために、私たちは生まれ、今生かされている。私はそう信じています。 

 <聖フランシスコの平和の祈り>     主よ、わたしをあなたの平和の器にしてください。憎しみがあるところには愛を、 傷つけあうところにはゆるしを、 分裂のあるところに一致を、疑いのあるところには信仰を、誤りのあるところに真理を、絶望があるところには希望を、暗闇のあるところには光を、悲しみあるところには喜びを与えられますように。なぐさめられるよりもなぐさめることを、理解されるよりも理解されることを、愛されるよりも愛することをわたしたちが求めることができますように。わたしたちは与えることで豊かに受け取り、ゆるすことでゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちに復活するからです。アーメン。