2025年4月27日<復活節第2主日>説教

「やすかれ」

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 ヨハネによる福音書20章19~31節

 イースターおめでとうございます。クリスマスが静かな夜のイメージであるのに対し、イースターは朝日と色とりどりの咲き乱れるお花といった明るいイメージがあります。イエス様のこの世での生のはじまりがクリスマスであるのに対し、イースターはこの世での生を終えられて新しいいのちのはじまり、すなわち天国の先取りなのです。だからなんとなくパステルカラーに包まれた夢のような世界観が広がります。

 クリスマスも、聖書に書かれたイエス様の降誕物語の中には、いろんなシーンがあってそれぞれに良き知らせ、福音が込められているのですが、同じようにイエス様のご復活の物語にも様々な場面が描かれています。空っぽの墓、マグダラのマリアとの出会い、エマオへの道、鍵のかかった部屋で突然弟子たちの前に現れたイエス様、疑りやのトマス、そしてガリラヤ湖での弟子たちとの再会。どれをとっても、その場に居合わせた弟子たちの中に私がいたならと想像すると、胸がジーンと熱くなり、涙がこぼれそうになります。

 イエス様が復活してくださったから、私たちは今、神さまの存在を知り、神さまとつながり、この世の人生を終えた後に行くところが分かっています。クリスチャンでよかった。信じることができて良かった。神さまありがとう。心からそう思えるんですね。私たちはこのイースターを迎えるごとにその思いを新たにします。

 先日、私は13年前に患った乳がんの検診を1年ぶりに受けました。CTを取った結果、肺に転移しているかもしれないと告げられました。もう完治したものとばかり思っていましたが、私が患ったがんの種類は10年20年経ってから転移が分かることが少なからずあるそうです。わぁ、来たか、と思いました。後日、PET検査をしたところ、確かに肺に何かあるけれども、がんではない可能性が高いと言われました。「よかったー!」とまわりの看護師さんたちに笑われるような大きな声を出して喜びました。また今週、肺の専門医に見てもらうんですが、ひとまずホッとしたところです。

 でも、たとえ再発していたとしても、今ならそれを静かに、安らかに受け止めることが出来たのではないだろうかという思いを、心のどこかで持っています。13年前、39歳の時に乳がんの手術をしたときは、もうパニックでした。当時神学生であったにもかかわらず、神さまを完全に見失いました。でもその苦しみのただ中にイエス様は来てくださったのです。そしてその後の人生を生きていく中で、様々な大小の苦しみや悲しみを自分自身が味わい、又たくさんの信徒さんたちの苦しみを共有させていただきながら、いつも、どんな時もイエス様がそばにいてくださる。少しずつ、その確信が強くなっていきました。

 「嵐を静めるイエス様」のお話があります。イエス様と弟子たちを乗せた小舟がガリラヤ湖で嵐に遭い、今にも沈みそうになります。その時、イエス様はなんと舟の中で眠っておられたんですね。弟子たちの「先生、何とかしてください!」という悲鳴に起こされたイエス様は、「なんてお前たちは信仰が弱いんだ」とつぶやきながらも、嵐を静めてくださる。そういうお話です。でも、イエス様が教えてくださった本当の信仰というのは、叫んで神さまを呼んだら自分の思い通りに助けに来てくれることを信じるのではなく、神さまにすべてを委ねることなのです。 私はいざというとき、まだそこまで行きつくか分かりません。でも、「神さま、何とかしてください!」と喚き散らす代わりに、眠っておられるイエス様の隣りに枕を並べてまどろみたいのです。神さまに全幅の信頼をおいて、その時どんな嵐に遭っていようとも、心の中は、イエス様が共におられるから平安でいられる、それが本当の信仰であると思うようになりました。

 今日の福音書の中に、「あなたがたに平和があるように」というイエス様の言葉が3回出てきます。これはヘブライ語での「シャローム」、「みなさん、こんにちは」というような挨拶だと言われていますが、ここでのイエス様の言葉は、単なる挨拶以上のものがあると思われます。私たちの使っている聖書では「平和」と訳されていますが、他の聖書訳で使われている「平安」、または以前使われていた口語訳の「安かれ」の方がなんとなく、個人的にはしっくりくる気がします。「平和」というと単に争いのない状態が浮かびますが、「平安」というと、心の奥底が神さまの愛で満たされている、心配や不安のない状態、安らいでいる、大丈夫、そんな状態のように感じられます。まさに「安かれ」ですね。

 このイエス様の3回の「安かれ」を一つずつ、見ていきたいと思います。

 まず、1回目の「安かれ」は、家じゅうの鍵を閉めて、中で肩を寄せ合いながら震えあがっていた弟子たちに対して言われました。イエス様が十字架にかけられて、恐ろしくなって逃げてしまった弟子たち、ユダヤ人が追って来ないか、そして大好きなイエス様を裏切るというとんでもないことをしてしまった恐ろしさを感じながら地獄にいるような心境を味わっていた彼らの前に主は突如現れ、「安かれ、大丈夫だよ」と言われたのです。そしてご自分が本当によみがえられたその事実を、手と脇腹の傷を見せて弟子たちに知らされました。弟子たちは大喜びしました。

 そして2回目の「安かれ」が言われたのは、その直後、弟子たちに、「あなたがたをこの世界に遣わそう」と呼びかけるときのことでした。これはどういう意味でしょうか? イエス様は、ご自分が父なる神さまから遣わされて、神さまの愛をこの世に伝えるという働きがどれほどまでに辛く、苦しいものであるかをご存じでした。もちろん喜びもあったでしょう。でも、最後は十字架につけられるまでに人々から嫌われ、侮辱され、裏切られたのです。でも、愛する弟子たちに「どうかこのミッションを受け継いでほしい、大丈夫だから、私が一緒にいるから、安心して行きなさい。」そういう思いで、「安かれ」「あなたがたに平和があるように」と言われたのでないだろうか、そんな風に想像します。

 その後、彼らに息を吹きかけて聖霊を送られました。聖霊、それは神さまの力です。その上で、もう一つ、「罪を赦す」という重大な使命を弟子たちに与えられました。これは特にカトリック教会で長く、教会が人々の罪を赦す、赦さないの権威を持つと解釈されてきましたが、今はそういう解釈を取る必要はないのではないかと私は思っています。イエス様の弟子とは、私たち一人一人のことです。イエス様は、「私があなたがたを赦したように、あなたがたも人を赦しなさい。大丈夫、聖霊が助けてくれます。赦すところから平和は始まるのです。」そう言われているのではないでしょうか。

 そして、最後にイエス様が「安かれ」と言われたのは、「イエス様の手の釘の跡に自分の指を入れて見なければ、復活など決して信じない」と言い切っていたトマスの前に現れたときでした。トマスに自分の傷を触らせ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。

 見ないで信じる。これは決してトマスだけではない、私たちみんなが不得意とするところです。私たちは、なんらかの証拠がないと信じられない、そういう生き物です。では、見ないで信じる、どうすればできるのでしょうか。その答えは、聖書にあります。詩編46編11節「力を捨てよ、知れ、わたしは神。」新しい聖書協会共同訳では「静まれ、私こそが神であると知れ。」すなわち、自分の思いや考えを捨てて、静まりなさい、そうすれば神さまを知ることができる、ということです。心を安らかにするならば、「見ないのに信じる」ことが可能となるのです。

 今日は、盛沢山な内容になりました。でも、大切なのは、復活のイエス様が、私たち一人ひとりに「安かれ」「あなたがたに平和があるように」「平安があるように」と言ってくださるということ。その意味は、「大丈夫、私に任せなさい。心の沸き立つ思いを静めなさい。私は何があっても、ずっとあなたと共にいるよ」ということです。

 さあ、その「主の平和」を胸いっぱいにいただいて、外へ出て行きましょう。恐れずに、一人でも多くの人に神さまの愛とゆるしを伝えることができますように。そして私たち一人ひとりの人生の中で、どんなに大きな嵐に遭遇しようとも、神さまにすべてを委ねて、眠るイエス様の隣りでまどろむことができますように。