「おわりのとき」
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マルコによる福音書13章14~23節
今日の福音書は、何かとても恐ろしい記述からスタートしています。この「憎むべき破壊者」というのは偶像のことで、それがエルサレム神殿の聖なる場所に立てられるということです。その事件がすでに起こっており、さらにイエス様は、それがまた起こるのだということをここで語られているようです。
日本にも世界にも、様々な宗教があります。その中には、「カルト」と呼ばれるものも多く存在します。そしてその「カルト」が強調するのは今日の箇所のような「世の終わり」に関することであり、それによって人々を不安に落とし込むこともあるようです。わたしたち聖公会では、それほど「世の終わり」、つまり「終末」のことを語ってはいません。イエス様が再び来られる「再臨」についてもそうです。そんなに強く意識していないのかもしれません。しかしこの時期、降臨節を間近に迎えるこの期節に、この「暗闇」のことを心に留め、思いめぐらせていくことは大変大切なことだろうと思います。そのことによって、わたしたちは「光を待ち望む」ことの意味を再確認するからです。
先週水曜日、わたしは上野におりました。伊賀市内にある様々なキリスト教会の教派を超えた祈りの会に参加するために、出かけておりました。ただわたしの性格もあると思うんですが、そういうときすぐに「行きます!」と申し込んでしまうものの、日にちがせまってくるにつれて、どんどん心配になっていくんですね。「ちゃんとしゃべれるやろうか」とか、「怖い人いないやろうか」と。しかし当日になり、午前中の用事を終えて教会に行くと、中から女性が出てきて丁寧に駐車場を案内してくれました。また礼拝堂に入るといろんな人が挨拶をしてくれ、とても和やかな2時間を過ごすことができました。
考えてみたら、当たり前なんです。キリスト教の教派を超えた祈りの集まりなのに、とんでもなく怖い人がいるわけがないんです。お祈りの仕方や聖歌の歌い方、いろんな違いがあるものの、同じ神さまに連なっていること、そのことを思い起こさせられました。わたしたちは自分と考え方などが違う人と、出会い、語り、関わることを躊躇することがあります。気心の知れた仲間であれば、気持ちも楽です。しかし教派に限らず民族や国籍、宗教や性別など様々な違いを超えて、手を取り合って歩んでいくことは、言葉にすると簡単ですが実際におこなうとなると、なかなか大変なことです。そのわりに教会では、そういう集まりを色々企画しているじゃないかと思われるかもしれません。今日の夕方には教派を超えて、エキュメニカル礼拝とバーベキューをおこないます。また来週には宗派を超えて、平和の巡拝をおこないます。ただこれらは、わたしがそんなに積極的にやりたいと思ってやっていることではありません。ちょっと語弊があるかもしれません。これらの企画はいつの間にかわたしの前にやってきて、わたしはそこから逃れることができなくなっていく。神さまのご計画の中に組み込まれていったという思いさえ持つのです。
上野からの帰り道、のんびりと国道25号線を奈良に向けて走っていました。その日出会った人との会話を思い起こしながら、またそこでのお祈りに思いをはせながら、車をすすめていました。すると目の前が、ぱあっと赤く染まりました。それは久しぶりに見た、きれいな夕日でした。何だか神さまがメッセージをくれているように思えました。ずっと不安で恐れながら、「どうしよう」、「大丈夫だろうか」と様々なことに震え続けているわたしに対し、「大丈夫、安心して」と語りかけてくださっているように思えたのです。
ところでみなさんは、朝日と夕日、どちらがお好きですか。そんな、どっちも同じ太陽だし、変わらないでしょうと思うかもしれません。実はわたしはずっと、朝日が好きでした。それは「さあ、これから一日活動するぞ」っていう気持ちになれるからです。反面夕日は、きれいなのですが、何か悲しい気持ちになることが多くありました。この光とは、もうすぐお別れなんだ。日が沈んでしまったら、外は暗闇になってしまう。そんな思いを持ったものです。でもいつからでしょうか。夕日もとても好きになっていきました。確かにだんだんと周りは暗くなっていきます。しかしその暗闇の中に、また必ず光が訪れる。そのことを知っているから、わたしたちは夕日を楽しむことができるのかもしれません。
降臨節を迎える前に、わたしたちは「終わりの時」について書かれた聖書の言葉に聞きます。終わりの時のイメージはとても暗く、わたしたちには恐れを与えるものです。まさに「暗闇」をイメージさせるものです。暗闇の中でうめき、ただただすべての終わりを待つしかない。それがわたしたちに与えられた状況だとしたら、わたしたちは嘆くことしかできないでしょう。いくら待っても光が与えられないのだとしたら、朝日が昇らないのだとしたら、闇はわたしたちに絶望しか見せないのです。
今から2000年前、闇の中で嘆き悲しむ人々を見て、神さまは大きな決断を下されました。それはご自分の独り子イエス様をこの世に遣わすということです。なぜそう思われたのか。それはわたしたち人間には、自分の力で光の元へ行くことができないからです。イエス様が来られる前までの神さまとの約束は、旧約聖書に書かれています。旧約とは古い翻訳ではなく、古い契約、約束という意味があります。その中心は、十戒という掟です。そこには殺すなとか、盗むななどといった決まりがあります。
人々はその掟を守ることで、神さまの元に行けると信じていました。しかしイエス様は、おこないだけではなく、思いや言葉によってもあなたがたは罪を犯しているだろうと指摘します。わたしたちは誰一人として、神さまの前にまったく正しい人はいないのです。その罪深いわたしたちをそのまま受け入れるために、イエス様が来られたのです。十字架の上で血を流し、わたしたちの身代わりとしてその罪を一身に背負ってくださったのです。その贖いによってのみ、わたしたちは生かされている。光を与えられるのです。
そして旧約と新約、新しい約束の大きな違いがもう一つあります。それは、選ばれた民だけが救いにあずかるのではなく、神さまは全ての人たちを救いに導こうとされているということです。すべての人に、暗闇は訪れます。そしてすべての人に、光も訪れるのです。神さまからみたら、本当にちっぽけなわたしたちです。わたしたちが壁だと感じている違いなど、神さまの目には本当に些細なものとして映っていることだと思います。
そのことを、わたしたちは覚えていきたい。暗闇の向こうには、必ず光があるということを。そしてその光は、すべての人に用意されているということを。だからわたしたちは、神さまを伝えていきたい。あなたにも神さまは必ず手を差し伸べてくださり、導いてくださるということを、隣の人にもぜひ伝えてください。
そしてイエス様が来られる日、降誕日に向けて豊かな準備ができるようにいたしましょう。