2021年10月31日<諸聖徒日>説教

「幸いな人」

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マタイによる福音書5章1~12節

 皆様、おはようございます。私は、九州教区聖職候補生、ウイリアムス神学館三年の佐藤充と申します。今年の4月から1年間奈良基督教会で日曜日に実習をさせて頂いております。本日、大切な時間をお任せ頂きましたことを感謝申し上げます。また、皆様とご一緒にみ言葉の恵みを分かち合えますことを主に感謝致します。

 本日行われる諸聖徒日を覚え、信仰を受け継いできて下さった、諸先輩方の上に主の愛のみ旨が成し遂げられ、ご家族の上に主イエスキリストからの平安と祝福がありますようお祈り申し上げます。

 今日の福音書は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」というイエス様の言葉から始まる、山上の説教と言われている箇所の冒頭部分です。イエス様が、集まった民衆や弟子達と山に登り、語りかけておられる場面です。私たちにとっては、「つらく苦しそう」に思える「心の貧しい人々」や「悲しむ人々」のことを、イエス様は「幸いである」おっしゃったのは、なぜなのでしょうか?それには、全ての登場人物の主語が「人々」や「その人たち」という複数形で書かれている事に意味があるのかと思います。幸いを得るには、個人的な努力や能力などではなく、支え合える仲間や、人々が「共にいる」ということが重要なのでしょう。

 私自身、そのような「心の貧しさ」や「悲しみ」を味わった経験がありますので、少しお話しさせて頂きます。私が生まれ育ったのは神奈川県横須賀市で、両親が聖公会の信徒だったので横浜教区の教会で幼児洗礼と、堅信を受けました。しかし、高校生の頃からあまり教会には行かなくなってしまいました。横浜で介護の仕事をしていましたが、20代後半の時、大好きな沖縄に移住をしました。沖縄で様々な人との出会を通して再び教会に通うようになりました。その後、「牧師になろう」という思いを神様から与えられましたが、当時離婚をしてしまったことをきっかけに自信を失い、神様に背を向けるようになってしまいました。その後数年間は仕事に没頭しましたが、ある時その職場で次々とトラブルが起き、自分の力でどうにか解決しようとしましたが、どうにも出来ず孤独な日々を過ごしました。そんな中、当時通っていた教会の牧師さんや、そこで知り合った友人達が「共にいて」くれ、寄り添い励ましてくれたことで、少しずつ困難な状況から解放されていきました。「心の貧しさ」を経験し、自分一人の力ではどうにもできない事を味わったとき、教会の友人らが「共にいて」くれたことで、再び神様と「共にいる」ことの大切さを体験できました。そして「幸い」と「喜び」を再び感じることが出来るようになり、改めて「牧師を目指そう」と思うようになりました。その後、色々な方との出会いを通して、聖公会へ戻り、九州教区で働くように導かれていきました。

 今日の福音書にある、「心の貧しい人々」の「心」にあたる言葉は元々「霊」「spirit」を表す言葉です。心と言っても、個人的な感情や思いだけではなく、神様によって扱われる部分である「霊」であり、私たちの内面で力や感情の幹になる部分を表しています。そして「貧しい」というのは、経済的な意味ではなく、「へりくだった者」「敬虔(けいけん)な者」の意味で、神様に頼るということを表しています。個人的な力や所有物に依存するのではなく、ひたすら神様に頼るという積極的な意味なのです。つまり、自分自身の幹となる霊によって、へりくだって敬虔になり、神様を信頼し、神様の前で「人々」と呼ばれる、集いへ加えられることで幸いとされると書かれています。

 聖書について解説するある本には「『幸い』とは神と人との関係を示す概念であって、一般的な幸運ではない」と、書かれています。つまり、幸いであるとは個人的な楽しみや、満足感から得られるものではなく、神様と結ばれ、神様と『共にいる』ことによって祝福されることなのです。

 周囲の人々と「結び合わされ、共に」支え合い、励まし合いながら、神様に信頼して祈り求めていくことが大切だと、イエス様は教えておられました。イエス様の愛は時代を超え、空間も超えて注がれます。聖書の中のお話しも、イエス様の周りにいた人々にだけではなく、今ここにいる私達にも語り掛けられていますので、私達も「結び合わされ、共に」支え合い、祈り合うことが大切なのです。今は、様々な事情があって一つの場所に集えないとしても、手紙や電話や、インターネットなどを介して人と繋がっていくこともできるかと思います。

 本日の諸聖徒日を迎えるにあたり、改めて私達が結び合わされ、交わりに導かれた事に感謝したいと思います。聖書日課の初めにあります特祷で「主に選ばれた人びとを結び合わせ、み子イエス・キリストの体である公会に連ね、その交わりにあずからせてくださいました。」と祈りました。イエス様と共にある、教会での集まりの豊かさ、素晴らしさに改めて感謝したいと思います。

 私の父も一昨年の12月に、主の御許に召され、教会で葬送式をして頂きました。父は長年抗がん剤による治療を行っており、何度も手術を受けながら闘病生活をしておりました。教会が大好きな人で、若い時から仕事が忙しいにもかかわらず、教会や教区の奉仕を一生懸命にしていました。そんな父にある時「何でそんなに忙しいのに、教会の奉仕をするのか?」と聞いたことがあります。家では威張ってばかりいる父だったので、教会でもあれこれ仕切りたいだけなのかと思っていました。しかし、返ってきた答えは予想に反し「教会に集まっているみんなが、楽しそうにしているのが嬉しい」と話していました。そんな父を、教会に集まった方々と「共に」見送ることが出来た事は、幸いな時間でした。

 旧約聖書で読まれた、シラ書には『10先祖たちは憐れみ深い人々でその正しい行いは忘れ去られることがなかった。13 彼らの子孫は永遠に続きその栄光は消え去ることがない。14彼らのなきがらは安らかに葬られその名は子々孫々に至るまで生き続ける。』と書かれています。イエス様によって集められた憐れみ深い人々、つまり本日諸聖徒日で覚えた諸先輩方や、お名前はあげられることがなかったにせよ、私達に様々なことを受け継いできて下さったすべての方々の存在は、子々孫々にまで生き続けます。イエス様は全ての人の霊を愛して下さる方ですから、すべての方の名が子々孫々に至るまで生き続けるということだと私は信じます。肉体において今は見えませんが、イエス様を中心にして共に集められ、結び合わされています。

 私達が毎週行っている聖餐式の「感謝聖別」の中で、『天の全会衆とともに、主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌います』と唱えられます。天の全会衆とは私達に様々なことを受け継いできて下さった方々を含む、天におられる全ての方を指します。その方々とも共に集い、主を賛美し、聖餐式の恵みに与ります。毎週の礼拝は、イエス様が十字架で犠牲となり、死からの復活されたことによって、天におられる先輩方と一つにされ、共に恵みを分かち合うことが出来ます。私達が礼拝を通して天の全会衆と共に、ここに集められているという事を覚え、神様を賛美し、神様からの恵みを受け取って参りましょう。それこそが、イエス様が私達に伝えて下さった幸いなのではないでしょうか。