「朝早く、まだ暗いうちに」
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ヨハネによる福音書20章1~10節
イースター、おめでとうございます。今日の福音書は、このような言葉から始まりました。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」。週の初めの日、というのは日曜日のことです。
今日の福音書に最初に登場するマグダラのマリアは、朝早く、まだ暗いうちに行動します。当然その目には、月の明かりがまばゆいばかりに飛び込んできたことでしょう。しかしマグダラのマリアの心の中は、どうだったでしょうか。
教会によっては、イースタービジルという礼拝をおこなうところがあります。そのときに、深夜であってもずっと礼拝をすることができる原動力は、「復活日の喜びが待っている」ということなのでしょう。今は月の明かりしかない暗い夜だけれども、本当の光がまもなく訪れる。そのことを知っているから、眠くても我慢できるわけです。しかしマグダラのマリアの心の中には、残念ながら希望がありませんでした。イエス様は十字架の上で息を引き取り、墓に葬られます。彼女は復活のイエス様に出会うために墓に向かったのではありません。他の福音書に書かれていることですが、彼女は香料を塗りに、墓に行きました。
では香料は何のために塗るのか。それは遺体の腐食を遅らせるためでした。また匂いを抑えるためでした。彼女の中で、イエス様は「すでに亡くなった方」、そしてお墓にあるのは、「イエス様のご遺体」、それが現実だったのです。
イエス様が息を引き取られたのが金曜日の午後3時、そしてその遺体はアリマタヤのヨセフの手によって降ろされ、新しいお墓に入れられました。しかしそこからユダヤでは安息日に入ります。そのためにマグダラのマリアはイエス様の遺体に香料を塗ることすらできませんでした。
先週教会でおこなわれた復活前主日の礼拝での朗読劇の最後は、このような言葉で締めくくられていました。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」。マグダラのマリアには、少し離れたところで、ただお墓の方を向いて座ることしか許されていませんでした。彼女の心には、希望など何もなかったことでしょう。ただただ涙を流しながら、夜が明けるのを待っていたのです。そのときの心情を、わたしたちも感じたいと思います。今日は復活日。教会を見るとお花も飾られ、祝会の準備も進められ、喜びにあふれているようにも感じます。でも、YouTube配信の画面の向こうや出席されている方々がみんなもろ手を挙げてハッピーなのかというと、決してそうではないと思うのです。
楽しそうに歩いている人、何を買おうかときょろきょろしている人、大声で誰かを呼んでいる人、でもその中に、イライラした顔の人、急いでどこかに向かおうとしている人、うつむいたままで顔を上げようとしない人もいます。その人たちの心は、マグダラのマリアのように暗く、出口が見えない状態かもしれません。いや、わたしたちも笑顔の裏に、暗闇を抱えているのかもしれません。知らないところで涙を流している方もいるのかもしれないのです。
イエス様の復活は、その一人ひとりの元に訪れます。今日の復活の場面を読むと、わたしたちがイメージするものとは少し違うのかもしれません。たとえばマグダラのマリアが一番喜ぶとしたら、お墓に行く途中で、復活したイエス様が姿を見せ、声を掛けてくれるというシチュエーションでしょう。
確かに聖書を読み進めていくと、復活のイエス様はその後マグダラのマリアに出会い、また来週の福音書に出てきますがその日の夕方に弟子たちの間に現れ、ということが書かれていきます。しかし復活の朝、最初の場面には、空のお墓しかでてこないのです。
お墓に行ったマグダラのマリアは、気が動転します。イエス様が墓から取り去られたと、彼女は驚くのです。そしてそれをペトロともう一人、イエス様が愛しておられた弟子、これは弟子のヨハネだと考えられていますが、その二人に伝えたのです。
ペトロともう一人の弟子はお墓に入り、マグダラのマリアが言うとおりにイエス様の遺体が無くなり亜麻布だけが置かれているのを見ます。そして彼らは、イエス様が墓から取り去られたという事実だけを信じます。ただこのときにはまだ彼らは、イエス様が復活することになっているということは理解できていませんでした。
今日、復活日の朝、わたしたちの目の前に、復活のイエス様が目に見える形で現れているわけではありません。この後ろの聖卓の前に両手を広げたイエス様が立っているとすれば、今、この場にいる方はみな信じることでしょう。
しかし神さまは、そうなさいませんでした。コヘレトの言葉3章1節には「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉があります。復活のイエス様との出会いは、わたしたちがお膳立てして設定するものではないのです。
空の墓でイエス様と出会うことのできなかった人たちは、それぞれの時に、それぞれの場所で復活のイエス様と出会いました。その後2000年間、復活のイエス様は様々な場所でたくさんの人たちと出会ってきました。
わたしたちにもそうです。すでに復活のイエス様と出会った方、多くおられると思います。しかしその出会いには、決まった形がありません。一度その出会いを、「証し」としてお互いに語り合う機会があってもいいかもしれません。それぞれの方に、忘れられない出会いがあるのだろうと思います。
そして、まだそういうことないよ、という方もいていいと思います。まだ復活のイエス様との出会いを感じることができずに、洗礼まで至っていない方。クリスチャンとして生きているものの、本当に出会っているんだろうかと思ってしまう人。
あっていいと思います。なぜならその出会いは、わたしたちが思う形では訪れないからです。神さまが決められたときに、神さまが決められた形でやってくる。そのときを楽しみにしながら、喜びをもって待ち続けてまいりましょう。
今日、わたしたちの前には空のお墓が与えられました。その空のお墓は、復活されたイエス様が一つの場所に、決まった時代に留まられないしるしです。わたしたち一人ひとりの間に、復活のイエス様が必ず来てくださるという、大きな約束です。
そのことを心に留め、感謝をもって歩んでいきましょう。わたしたちの元に、神さまの愛は必ず届けられます。




