2023年7月2日<聖霊降臨後第5主日(特定8)>説教

「一杯の水」

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 マタイによる福音書10章34~42節

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ」、今日の福音書は、このようなイエス様の言葉から始まりました。そしてわたしはこう思います。そこで終わってくれたらよかったのに、と。と言いますのもイエス様は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ」のあとに、「と思ってはならない」と否定されます。さらにこう言われるわけです。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」と。こんなこと言われるのなら、教会なんかに来るんじゃなかった。最初この箇所を読んだときに、そのように思った方もおられるかもしれません。なぜなら平和を求め、一人一人の心が平安であるように、願い求める。それが教会だと、わたしたちは思うからです。

 そしてさらに、イエス様は続けます。「こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。わたしはイエス様のことが大好きです。でも家族のことも、それ以上に大好きです。遠く離れた場所にいる父も母も、妻も娘も息子も、みんな大好きです。愛しています。しかしイエス様はこう言われる。「わたしよりも家族を愛する者は、わたしにふさわしくない」。

 この言葉を正面から受け止めると、教会ってなんてしんどいところなのだろうかという思いさえ持ちます。カルト宗教によって家族がめちゃくちゃになってしまったという事件は昔からあります。今日の言葉も、誤って用いるとそのようになる危険性さえあります。

 さて、今日読まれたマタイによる福音書10章は、11章1節までの間に一貫してこのようなことが語られています。それは「宣教の心構え」です。10章の1節から4節で、まずイエス様は12人を選び、弟子としました。そして5節から、12弟子を派遣するという内容に入っていくのですが、ここからイエス様はその12人の弟子に細かく命じられます。行く場所や持ち物、その家の人が受け入れてくれたらどうするのか。逆に受け入れられなかったらどうするのか。迫害を予告したり、人々のことを恐れる必要はないと言われたり、さらに人前でわたしのことを伝えるようにとイエス様は語られます。そして今日の箇所が終わると、11章1節にはこのように書かれています。

 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 かわいい子どもがおつかいに行く様子を隠し撮りする「初めてのおつかい」というテレビ番組があります。不安そうな我が子を励ますように、お財布をしっかりと握らせたり、お店の名前や買う物のリストを何度も大きな声で伝えたり、そうやって「初めてのおつかい」にかわいい我が子を送り出すわけです。そして帰ってくるはずの時間、おうちの方はソワソワ、ソワソワしながら子どもの帰りを待ちます。そして家の窓から遠くの方に我が子を見つけると、遠くから走り寄り、抱き着いて言うわけです。「よくやったね。頑張ったね」って。

 イエス様が選んだ12人。その弟子たちは、お師匠さんと肩を並べることができたから、一人前になった証しとして宣教に向かうことができたのでしょうか。そうではありません。それどころか12人のうちの一人は裏切り者でしたし、残りの人たちもイエス様の十字架のときには逃げ出す、そんな弟子たちでした。

 イエス様は、そんな彼らを宣教の場に送り込むのです。それはイエス様からすると、「初めてのおつかい」とそんなに変わらないことなのかもしれません。とても心配で、見ておれない弟子たち。しかし彼ら一人一人に権能を授け、あらゆる指示をお与えになります。そしてそれらの言葉の裏には、「大丈夫。わたしがいるから心配するな。つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろんなことがあるだろう。家族もわかってくれないかもしれない。でも大丈夫。わたしはあなたと共にいる」というイエス様の熱い思いがあるのです。

 わたしたちは宣教のプロフェッショナルとして、それぞれの場所に遣わされたわけではないということです。それどころか何も訓練を受けおらず、何のコネもなく、そして何の能力もない一人一人が遣わされているということです。弱く、小さな自分を知りながら、そのわたしに寄り添ってくださる方がいることを伝える。これが宣教です。自分をひけらかすことなく、周りと融合し、共に生きて行くこと。それがとても大切なことなのです。

 先週おこなわれたエキュメニカルバーベキューには、11の教会の方々が来られました。その交わりの時間は、礼拝からスタートしました。礼拝の中で、短いメッセージをいたしました。その中で、こんなお話しをしました。

 さてこの礼拝堂に、初めて入ったという方もおられると思います。初めて入ったとき、この建物、どう思いましたか。教会の建物だって思いましたか。先日奈良テレビの「ゆうドキッ」という番組の中で、この教会に関するクイズが出されました。問題は、「なぜキリスト教会なのに、和風建築なのでしょうか」というものでした。正解は、当教会の信徒に宮大工さんがいて、周りの景観とあわせるために和風建築にしたというものだったのですが、選択肢の中にこのようなものもありました。「お寺を改修したから」。そうか、初めて来た人にはそう見えるのかと感心しましたが、でもこの感覚って大切にしたいなあって思うんです。というのも、この教会を作るときに、きっとこういう考え方があったはずだからです。「自己主張するのはやめよう」って。この奈良という地で、「わたしこそが教会だ」と虚勢を張るのではなく、地域に溶け込んでいく。それと同じことが今、この場に集うわたしたちには必要なのかもしれません。

 「平和ではなく剣」という箇所からは、少しイメージが遠ざかってしまうかもしれません。しかし今日の場面、イエス様はこんな言葉も残しておられます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。わたしたちが周りの人と生きて行こうとするときに、そこにはいさかいや戸惑い、そして痛みが生じるかもしれません。しかしわたしたちの中におられるイエス様を感じ、冷たい水一杯をくれる人がいたら、それが宣教の実りなのです。たった一杯の水でいいのです。イエス様を感じたその喜びが一杯の水にあらわされたときに、その人は祝福を受けるというのです。

 イエス様はわたしたちを、それぞれの場所に遣わされます。いろいろな働きがあります。その中で、「冷たい水一杯」を分かち合う関係を作ること、それがイエス様の求めておられる宣教の形です。わたしたち一人一人、イエス様の小さな弟子として歩んでいくことができますように、祈りたいと思います。