「一年の終わり」
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ヨハネによる福音書18章31~37節
今日は、降臨節前主日、教会の暦の上では、一年の最後の日曜日となります。来週の日曜日から、降臨節、アドベントが始まり、その四週間後に来るクリスマス、イエス様のお誕生を待ち望む期間となります。毎年、この一年の終わりの日曜日には、世の終わりについて書かれた聖書箇所が読まれます。それと同時に、この日曜日は、「王であるキリストの日曜日」とも呼ばれ、イエスさまが私たちの王であることを再確認する日でもあります。
私たちは、王様と聞いてもあまりピンときません。天皇は単なる国の象徴ですし、イギリスやスペインにも王様はいますが、立憲君主制ですから王様にそこまで権限はありません。絶対王政を敷いている国は今やそんなにたくさんなくて、サウジアラビアやアラブ首長国連邦といったアラブの国がほとんどのようです。詳しくは知りませんが、どことなく、王族というのは計り知れない大富豪というイメージがあります。国民思いの良い王様ならいいですが、一つ間違えれば大変な独裁政治が行われることにもなります。
もし、私たちがそういった絶対君主制を敷く王国に住んでいるとしたら、どんな王様を望むでしょうか。おそらく、とても人格的に優れていて、いつも臣民のことを考えてくれて、見た目も麗しく、決して手の届かない、けれども憧れる。その王様のために臣民の一人であることを自慢できるような、そんな存在ではないでしょうか。ディズニーの映画に出てくるような、美しいお城も浮かんできます。そのように、この王様がいる間は私の生活は豊かで、この国は平和で安泰である、そういった自分に幸福をもたらしてくれる王を望むことでしょう。
そのイメージを持ちながら、王の王と呼ばれるイエスさまを思い浮かべるとどうでしょうか? どこが?という思いがします。ナザレの貧しい村で大工の子として育ち、弟子たちを連れて、旅をし、施しを受けながら人々を癒し、悪霊を追い出し、神さまを伝える、そんな生き方をされる方でした。泊めてくれる家がない時には野宿さえしたかもしれません。おそらくぼろぼろの服をまとい、髪の毛からつま先までいつも埃だらけだったことでしょう。「大食漢で大酒のみ」と揶揄される記述さえありますから、食事のマナーも貴族のようでなかったことは確かです。本当に庶民の生活、あるいはそれ以下であったと思われます。イエスとは、こんな方だったんです。それでも並々ならぬカリスマを持ち合わせた彼の言葉を聞き、奇跡を見た人びとは、彼こそがようやく自分たちが何百年もの間待ち望んだメシア、救い主であると確信し、大喜びをしたのです。これでもう僕たちは、働いても、働いても貧しい生活、ローマの圧政による苦しみから解放される、神はようやくご自分の民を顧みてくれた、そのような思いで、期待をいっぱい込めてイエスさまについて行きました。
今日の日曜日のために選ばれた福音書は実はもう一つあり、どちらかを選ぶことになっているのですが、そのもう一つの方、マルコによる福音書11章1~11節の方が、その民衆の期待を良く表しています。イエスさまが子ろばに乗って、まわりの人びとから万歳!ホサナ!とあたかも自分たちの国の王様として迎えられるかのように、歓喜のうちにエルサレムに入られたときの情景です。これはイエスさまが十字架にかけられるたった1週間前の出来事でした。たった一週間で、民衆は、イエスが自分たちの期待した王ではない、すなわちユダヤ民族をローマ帝国から解放する、ダビデ王のように自分たちの王国を再建するような王ではないということを悟り、一斉に「十字架につけろ」と叫んで殺してしまうのです。
今日お読みした、ヨハネによる福音書は、イエスさまが死刑の判決を受ける前に、ローマの総督ピラトから尋問される箇所ですが、よく分からない会話がなされています。ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか?」という質問を二度繰り返すのですが、イエス様は答えられてないんですね。それは「あなたの考えですか?」とか「それはあなたが言っていることだ」とか、てんで意味不明な回答をしています。おそらくこれは、ピラトが言っている王とイエス様が示そうとしておられる王とはまったく次元の違うものであって、単純に、「はい」や「いいえ」で伝えきれないものだったから、あるいは、「はい」というと直ちに誤解が生じると考えられたからだと思われます。イエス様は、しかし、はっきりと言われました。「私の国は、この世には属していない」と。「私の国」と言われるわけですから、やはりイエスは王なのです。しかし、私たちが思い描くような、自分たちの生活を楽にしてくれる、物質的に幸福感を与えてくれるこの世的な王さまではないということなのです。
この世に属さない、イエス様が王である国、それは神の国です。その神の国では、地上の権力や暴力によって支配される一時的なものではなく、愛と平和、そして神の義と真理による霊的で永遠の支配が行われます。この神の国はいったいどこにあるのでしょうか。いったいいつ始まるのでしょうか。イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えられました。「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように、御国がきますように、み心が天に行われる通り、地にも行われますように。」この祈りの中心は、「御国が来ますように」です。イエス様は言われました。願い続けなさい、待ち続けなさいと。必ず私は戻ってくるからと。今日読まれたヨハネの黙示録1章7節に書かれているように、必ずや、いつの日か、イエス様は雲に乗って来られるのです。でもそれは、西暦二千○百○十○年何月何日というカレンダーの一日であるかもしれないけれど、それと同時に、今その神の国は私たちの間に始まっているのです。次のように書かれているとおりです。「神である主、すなわちイエス様は、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者であるその方はこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」アルファとオメガ、それはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字です。私は初めであり、終わりであると。
今日は、教会歴の最後の日曜日、来週から新しい年が始まります。この新しい年は、喜びいっぱいに始まるのかと思いきや、そうではなく、今日の福音書箇所がそのすぐあとの出来事を示しているように、暗闇から始まるんですね。祭色は、イエス様の復活前の40日間と同じ紫となり、祭壇のお花もなくなります。聖餐式での大栄光の歌も歌わなくなります。これが、降臨節。たっぷり4週間、王の到来を待ち望む季節なのです。天地創造の初め、この世界が真っ暗闇から始まったように、ユダヤの一日が日没から始まるように、私たちも暗闇の中で、静かに自分の心の中を見つめながら、王の王が私たちのうちに戻ってくる日、神の国が来る日を待ち望むところから始まるのです。
今日は、礼拝後1時から、クリスマスの飾りつけを行います。どうぞみなさんお手伝いください。クリスマスは駆け足で、そしてとてもにぎやかにやってきます。けれどもどうか、そこはうまくコントロールして、心静かに、私のために命を捨ててくださり、そして救いへと導いてくださる本当の王様を待ち望むことができますように。その王様は、私たちの心の中にある貧しい馬小屋にお生まれくださいます。