2025年1月4日<降誕後第2主日>説教

「ヘロデの恐れ」

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 マタイによる福音書2章13~15、19~23節

 今日読まれたのは、ヘロデを中心にした物語です。ヘロデが生まれたばかりのイエス様を殺そうとしているから逃げなさいというのが前半、後半はそのヘロデが死んだのでナザレに戻ったというお話です。今日の聖書箇所では、2章16節から18節は飛ばされています。ここをまずお読みしたいと思います。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。

 このような、とても残酷な物語が載せられているのです。

 さて、ここに出てくる占星術の学者たちとは、イエス様に贈り物を届けたいわゆる博士たちです。

 東の国の博士たちは、星の研究をしていました。あるとき彼らは、ユダヤに新しい王が生まれるということを、星によって知ることになります。そしてその導きに従って、その幼子を拝みに行くのです。彼らはずっと、星の導きに従って歩んでいたのでしょう。しかし星が見えない時間もあるわけです。彼らはそこで、それこそ目星をつけて進むこともあったのではないかと思うのです。ユダヤの王が生まれるとしたら、どこなのだろう。そのときに誰かが言います。それはきっと、ヘロデ王の住むエルサレムではなかろうかと。そう思っても、仕方ありません。東方の博士たちからしたら、新しい王が生まれるのは当然王宮であり、そこには温かい毛布やたくさんの付き人がいて当然なのです。だから彼らはエルサレムに行き、ヘロデ大王の元に行ったのです。

 このヘロデ大王というのは、イエス様の十字架に関わったヘロデ・アンティパスの父親です。彼は偉大な建築家という側面も持ちますが、その統治はしばしば強権的で、反対勢力には厳しく対峙したそうです。そのヘロデ王の元に、「新しい王はどこですか?」と訪ねる人がいたわけです。しかも、星の導きによってということは、神さまのお告げである可能性も高いのです。そうなるとヘロデの心の中にはどんな感情が生まれるのでしょうか。

 新しい王ということは、今の王である自分の跡継ぎです。ただそのような幼子に心当たりがないのであれば、自分の王座を脅かす、そんな存在だということです。そう考えたヘロデはきっと、恐れたのではないでしょうか。ただこのころすでにヘロデは60代後半であり、しかも王になってから30年以上が経っていました。方や「新しい王」は生まれたばかり。普通に考えたら、恐れることなどないはずです。その赤ちゃんが青年になった頃には自分は引退しているかもしれない。そもそも天に召されているかもしれない。でも彼は恐れたのです。

 この恐れ、わたしたちにも理解できるのではないでしょうか。わたしたちにも、大切にしているものがあります。財産や家族、地位や名誉など、それが大なれ小なれ、大事なものは大事です。

 そしてそれが脅かされようとしているならば、全力で阻止しようとするわけです。あらがうんですね。ヘロデも必死で抵抗しようとしました。自分が王であり続けたいという思いから、その「新しい王」という存在をなくしてしまいたいと考えたのです。その結果、彼は大変恐ろしいことを実行しようとしました。

 まず博士たちには、幼子を無事に拝むことができたなら、自分に伝えてほしいと伝えます。「わたしも行って拝もう」と博士たちには言いますが、その裏ではその赤ちゃんを亡き者としてしまおうと考えていたようです。ところが博士たちは、「ヘロデのところに帰るな」という夢のお告げに従い、別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。それを知ったヘロデが「だまされた」と知って怒ったということなのです。

 自分が何よりも大切にしていたものを奪われる恐れ。それを回避するためにやろうとしていたことができなくなった、その裏切りに対する怒り。それらの感情は、ヘロデを本当に恐ろしい行動へと掻き立てます。

 今日読まれた福音書には、そのヘロデの怒りを逃れるため、ヨセフの夢に主の天使が現れてイエス様を連れてエジプトに避難したこと、そしてヘロデが死んだ後、また主の天使がヨセフの夢に現れてガリラヤのナザレに戻ったことが書かれていました。

 ただ飛ばされて読まれた箇所に書かれた出来事も、同時に起こったということを忘れることができません。すなわち、「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」という出来事があったのです。

 邪魔者は消す。その思いを何が何でも成し遂げたいヘロデの思いもさることながら、ただ逃げることしかできなかった幼子イエス様のことも思います。神の軍勢がイエス様を守るわけでも、ヘロデに対して災いを神さまが起こされるわけでもありません。ただただ逃げ惑うしかなかったヨセフ、マリア、イエス様。

 彼らは大きな力の前では、まったく無力でした。神さまはそんな家族に、わたしたちの救いを託されたのです。ちょっと握ればつぶれてしまうような小さな存在。それはわたしたちと何らかわらない。でもだからこそ、わたしたちと同じ場所に立ってくださるのです。

 10数年前、「マリア」という映画が上映されました。マタイによる福音書の今日の箇所を読むたびに、わたしはこの映画の最後の場面を思い出します。この映画は、いわゆるクリスマス物語です。天使ガブリエルによる受胎告知やヨセフの苦悩、そしてイエス様の誕生など、丁寧に描かれています。でもこの映画は、喜びでは終わらないのです。ベツレヘムからエジプトに逃れる間、マリアの耳にはたくさんの叫びが届くのです。そしてとてつもない悲しみを、マリアは胸に刻みます。でもその痛みは、神さまもまた背負っているのです。

 イエス様をわたしたちの間に遣わした時点で、神さまのご計画の中には多くの悲しみと痛みがありました。そしてその痛みと悲しみは、イエス様の十字架で最高潮になるのですが、そんな思いをしてまでも、わたしたちを生かすために神さまがなさった決断、神さまの思いをわたしたちは恵みとして受け取っていきたいと思います。

 イエス様がお生まれになった物語、それは今もわたしたちの間に関わっている出来事です。神さまがわたしたちを愛する、その思いの中で、弱く小さい幼子を、わたしたちの間に遣わしてくださった。その恵みの中で、この一年も歩んでいくことができますようにと、お祈りいたします。イエス様がわたしたちと共にいてくださいますように。神さまの祝福があふれるほどに与えられますように、お祈りを続けましょう。