「キリストにならいて」
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ルカによる福音書14章1、7~14節
もうすぐ、私の父が天に召されようとしています。先週、菰野聖十字の家で家族で最後の塗油と聖餐式をさせていただきました。リクライニング車椅子にもたれ、もはや意識がうっすらとしている状態の父の前で感謝聖別の言葉を唱えていると、ふと、この言葉を父は50年ほどの牧師生活の中で一体何千回唱えたのだろうという思いが沸き上がり、涙があふれました。ぶどう酒に浸したウエハースのかけらを差し出すと、それまでつむっていた目と口を懸命に開けて、大きな声でアーメンと言いました。ああ、よかった!安堵の胸をなでおろし、神さまありがとうと感謝の思いでいっぱいになりました。
なぜ、そこでそんなにもほっとしたのかと言うと、晩年に入って、父の信仰が揺らぎだしたように感じていたからです。数か月前、だんだんと心と体の調子が悪くなってきた頃に、私を枕元へ呼び出して辛そうに話してくれたことがありました。「もうこれから、教会や信仰の話をしないでくれるか?お祈りもしないでほしい。」ショックでした。「うん、わかった、いいよ、いいよ」と父の前では言いながら「どうして!?」という思いがどうしても拭い去れませんでした。毎日聖書を読み、自分の父親の後ろ姿を見て、牧師となり、定年前の10年間は主教と首座主教まで務めあげた父の言葉として、どうしても認めたくない自分がそこにいました。
その後に会いに行った時には、こんなつぶやきを聞かせてくれました。「お父さんは、欲深いなぁ。もう辛いから消えてしまいたい。無になりたい。でも生きたい、亡くなりたくないと思うんや。情けないなぁ。欲深い自分が嫌になるなぁ。」「お父さん、そんなの普通だよ。だれでも生きたいと思ったり、死にたいと思ったりする、それでいいんだよ。神さまは全部わかってくれているよ」、そう言うと「そうか、わかってくれるか、これでもいいか、ありがとう」とほっとした様子でした。
それは、完全に威厳のなくなった父でした。そしてそれは、がんばって信仰を保たなきゃ、聖書を読まなきゃ、祈らなきゃという模範クリスチャンとしての自分を保っていた鎧や鎖をすべて外して、無防備で、自分が造られたままに、欲望のままに存在する無邪気な幼い子どもに返ったような父でありました。神さまの御許へ帰る直前にこのあるがままの人間に戻され、自分のどうしようもない不甲斐なさを認め、それを私にだけそっと吐露してくれたこの父を思いながら、今日の聖書箇所を読んでいたら、それまで心につっかえていたものがスーッと落ちていくのを感じたのです。
もしかしたら、彼の人生は、特に60歳で神戸教区の主教に選ばれてからは、ずっと招かれた食事会で上席に着く生活だったのかもしれません。リアルな食事会もそうだったかと思いますが、信仰的な食事会においてもです。聖書を知り尽くし、キリスト教教理を学び、聖公会という教派の歴史と伝統を知り、求道者を導き、信徒の霊的悩みを聞き、ひたすら人のために祈るという、クリスチャンとして、そして主教としてのあるべき姿、周りから期待されている姿が宴会の上席へと彼を押し出していたのでないかと思うのです。本当はそんな強い信仰もないし、ちっぽけで、情けなく弱い人間なのに、居心地悪いなぁ、嫌だなぁと後ろめたい気持ちを持ちながらいつも上席に座る。そんなことを、ことあるごとに感じる人生だったのかもしれません。もちろん、宗教指導者として、祝福された大きな喜びもあったでしょう。けれども、神さまのもとへ帰る日が近づくにつれ、「いや、本当は僕はこんな上席に座るべき人間じゃないんだ。神さまのみ心にすべてを委ねることもできない、欲深い人間なんだ」ということに気づき、すべてを脱ぎ捨てて、宴会の場からこっそり逃げ出した父の姿を思い浮かべるのです。(こんなこと、父が元気だったら怒られるかもしれませんが。)
でも、神さまはそんな父を見捨てることはなさいませんでした。神さまは、肩を落とし、だれにも見つからずに食事会の場を立ち去ろうとする父に立ちはだかって、きっと声をかけてくださったのです。「さあ、どうぞお戻りください。上席に進んでください」と。先日、施設で家族で行った最後の聖餐式の場は、まさしく父が今向かおうとしている天国の先取りであり、イエスさまが招かれる婚宴の場でした。その主の食卓で、永遠のいのちにつながるイエスさまの体と血を受け、イエスさまの招きに対して大きな声でアーメン、「確かに!」と答えることができたのです。
今日の聖書箇所からわたしたち一人ひとりが受け取るメッセージは、謙遜になりなさいというイエスの招きです。その謙遜とは人の前ではなく、神さまの前での話です。私たちは人の前で謙遜になるのは大得意です。とにかく、人前ででしゃばらず、低く出るのが美徳とされています。でも、それは相手を尊ぶためというよりは、自分がその人にどう思われるかを気にしてのことが多いのでないでしょうか。結構自分勝手な謙遜です。
イエスが言われる謙遜は、そうではなく、小さな子どものように、自分が如何に小さく、弱く、神さまなしでは生きていけない存在であるかを知っていることです。あるとき、イエスは言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と(ルカ18:16)。その模範を示してくださったのが、イエスご自身でした。主がどのようにお生まれになったか、どのように暮らされ、どのように最後を迎えられたか、どうぞ思い出してください。
そして、謙遜の反対は、高慢です。ちょうど、今日読まれた旧約聖書続編のシラ書10章12節に書かれていました。「高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。」いちばん、厄介なのが、自分は主に近いと思い込んでいる高慢です。聖書を隅から隅まで知り、礼拝を欠かさず、教会の規則を守り、献金をする。これだけやっていれば大丈夫、自分は神さまが招かれる婚宴では上席に座るにふさわしい。これがわたしたちクリスチャンの陥る罠なのです。二千年前のファリサイ派の人々と同じです。
自分が本当に謙遜に生きているかどうかを確かめる方法が一つあります。それは、今日の福音書の後半に書かれたイエスの勧めを実行できているかどうかを知ることです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」これはどういうことかというと、文字通り、友だちや家族と楽しい食事会をしてはならないということではなくて、今辛い思いをしている人、苦しみのうちにある人、一人ぼっちの人、差別されている人、そういった人たちに寄り添い、ともに生きなさいということです。これこそが、イエスがご自身の生涯においてなさったことなのです。その人たちとともに生きるということは、この世的な賞賛や益となるものを何ももたらさないかもしれない。でも、そこには本当の喜びがあるのです。天において、何にも代えることのできないご褒美を神さまは与えてくださり、いちばん前の席においでと手招いてくださいます。
謙遜に生きるということ、それはキリストに倣って生きるということ。もしかしたら、わたしたちはみんな最後の最後までそれができないのかもしれません。神さまの許に召される直前にそれができた父をうらやましく思い、そして誇らしく思います。どこまでも寛大で、高慢で罪深いわたしたち一人ひとりを受け入れてくれる神さまを賛美し、感謝をささげましょう。
最後に、15世紀の神学者トマス・ア・ケンピの著書「イミタチオ・クリスティ、キリストにならいて」の一節をご紹介します。「謙遜な人を神は守り、解放し、愛し、慰められる。神は謙遜な人に心をかたむけ、大きな恵みを与えられ、その謙遜の後は、栄光へと揚げられる。謙遜な人にその秘儀を明かされ、彼をやさしくその御許に召される。」