2024年11月10日<聖霊降臨後第25主日(特定27)>説教

「ちいさなささげもの」

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 マルコによる福音書10章46~52節

 今日の福音書には、二つのお話しが書かれていました。一つ目は「律法学者に気をつけなさい」というもの。そして二つ目はイエス様が賽銭箱の向かいに座って、そこにお金を入れている様子を見ながら語られた物語です。この二つのお話しに共通していることは何だろうかと考えたときに、一つのキーワードに気づかされます。それは「見せかけ」というものです。「見栄」や「プライド」と言い換えてもいいかもしれません。

 最初に出てくる律法学者は、長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることを好み、 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをすると書かれています。長い衣を着ることによって人々の注目を集め、広場で挨拶されることによって人々から一目置かれ、上席や上座に座ることによってこの人は偉い人だと周りに知らしめる。そして長い長いお祈りによってたくさんの祈祷料をふんだくる。さて、この一つ目のイエス様の話を聞いたときに、みなさんは多分、「ああ、それはアカンわ~。そんなことしたらイエス様怒らはるわ~」と、まあまあ他人ごととして捉えていくのだろうと思います。別に人から尊敬を集めようと長い衣をまとうこともないでしょうし、大勢の前で「先生!」なんて挨拶されることも、そんなにないでしょう。誰かのためにお祈りしてお金をもらうことだって、まあないと思います。そして、そもそも宴会にもそんなに行かない。となると、この箇所を読んだみなさんは、思うかもしれません。「これは、牧師に対して言われてることなんだ」って。確かにあの牧師、白い衣着てるし、「先生」って呼ばれてまんざらでもなさそうだし。今度ご飯食べ行ったとき、どこに座るか見ておきましょうと。

 でもそれで終わってしまったら、今日の福音書のメッセージの半分は自分とは関係のないこととなってしまいます。それって、とってももったいないと思うんですね。そこで最初に言ったキーワード、「見せかけ」ということを心に留めながら、後半のメッセージに目を向けてみたいと思います。

 ある日イエス様は、賽銭箱の向かいに座って、群衆がそこにお金を入れる様子を見ておられたそうです。大勢の金持ちがたくさん入れていたそうです。お金持ちが賽銭箱にたくさん入れるという記述を見ると、今であれば、北里柴三郎や津田梅子、渋沢栄一を思い浮かべるかもしれません。ちょっと前までは福沢諭吉や聖徳太子でしたが。しかし2000年前は、お金というと金貨や銀貨などの硬貨です。聖書の後ろの方には長さや広さ、重さや容量、そして通貨の単位を今の価値に概算しているページがあります。また興味のある方は、ご覧いただけたらと思います。

 たとえばよく耳にするもので、デナリオン銀貨というものがあります。その1デナリオンというのがだいたい1日の賃金に相当する金額だそうです。ですから仮に1万円としても良いと思います。きっとお金持ちたちは、そのような銀貨を投げ入れていたのでしょう。そしてその様子はイエス様だけではなく、周りの人たちにも知れ渡っていきます。といいますのも当時の賽銭箱はラッパのような形をしており、上から投げ入れると「カラカラカンカン!」と大きな音が響き渡る仕掛けになっていたからです。1万円の価値のある銀貨です。それなりの重さもあったことでしょう。それがもし複数枚入れられたとしたら、それはそれはおおきな音が鳴ったと思います。周りの人たちは「今、たくさん入れたのは誰だ?」と注目したに違いありません。

 一方で貧しいやもめが入れたもの、それはレプトン銅貨が2枚でした。1レプトンは1デナリオンの128分の1の価値しかありません。だいたい78円くらいです。ただこの時代、この地域において一番価値の低い硬貨でした。今でいうと、一円玉のような感じです。彼女はレプトン銅貨を2枚、賽銭箱に投げ入れました。2枚入れても、150円ちょっとです。デナリオン銀貨と比べると、本当にわずかな額です。しかしイエス様は、ご存じでした。貧しいやもめにとって、その2レプトンがどれほど大きな額であるかということを。

 やもめというのは、夫に先立たれた女性です。2000年前のユダヤです。遺族年金があるわけもなく、また女性が働ける環境もなく、援助してくれる子どもや親戚がいない限り、その生活は困窮を極めていました。この物語の中でもわざわざ「貧しい」と書かれていますから、本当に貧しかったのでしょう。明日どころか今日食べる物すらないかもしれない。そんなギリギリの状況で生きてきた彼女にとって、この2枚の銅貨はずっと握りしめておきたかったものだったと思うんです。でも彼女は、それをささげました。

 今日の物語、もし美談、美しい物語にしようとするならば、そのすべてをささげたやもめに幸運が訪れるとか、天の国で上座に座っているとか、そういうハッピーエンドを描きたくなるところです。しかし聖書には、そのようなことはまったく書かれていません。

 イエス様はただ一言、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われただけです。でもこのことが、わたしたちに対する大きなメッセージだと思うんですね。

 そもそもこの貧しいやもめは、なぜ賽銭箱にお金を投げ入れたのでしょうか。わたしはこう思います。彼女は今日、神さまによって生かされていることに、ただただ感謝したのではないだろうかと。明日、食べる物が与えられるかどうかはわかりません。また賽銭箱にお金を入れても、何か見返りがあるとも限りません。しかし彼女は、感謝を献げた。献げずにはおられなかった。人々から見たら、本当に小さな献げ物かもしれません。しかしイエス様はそれを見て、「彼女はたくさん入れたのだ」と語られます。そして神さまもまた、その献げ物を喜ばれたことだろうと思います。

 つまり献げ物で大切なのは、その量ではなく心なのです。律法学者は人から偉く見られたいと振る舞いました。お金持ちたちは、周りの人々から「すごいなあ」という目で見られたいと考えました。彼らは誰のために行動し、誰のために献げ物をしたのでしょうか。それは自分のためです。自分はこのように見られたい。自分は人とは違う。その「自分は、自分は」という心を持ったままで何をしようとも、それは神さまの前では喜ばれない。そうではなく、自分ができる精一杯のもので、ただただ感謝する。それこそがちいさな、しかし素晴らしい献げ物なのです。

 見せかけのものは、必要ないのです。わたしたちのすべては、神さまに知られています。そして神さまはわたしたちの小さな心も、愛してくださるのです。そのことを心から信じていきましょう。