2025年2月22日<大斎節第1主日>説教

「荒れ野で本当の自分に出会う」

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 マタイによる福音書4章1~11節

 先週の水曜日より、教会は大斎節と呼ばれる季節に入りました。キリスト教でいちばん大きく、大切なお祭りは、クリスマス…ではなく、実はキリストの復活を祝うイースターです。このキリストの復活の前に何があったかというと、言うまでもなく、十字架の出来事です。教会は、イエス様が十字架にかけられるまでの40日余りの期間を「大斎節」と定め、ずっと大事にしてきました。ちなみにカトリックでは「四旬節」、ほかのプロテスタント諸教会では「レント」と呼ばれています。祭色はこれまでの緑から紫へ変わり、祭壇にはお花が飾られず、礼拝堂にどことなく厳かな雰囲気が漂います。

 この40日というのは、正確には日曜日を除いた日数なのですが、その数字がどこから来ているかというと、そう、本日の福音書箇所からです。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」このイエス様が荒れ野で過ごされた40日間というのは、十字架の直前というわけではなく、宣教活動を始められる前の期間です。神さまの子どもとして、神さまの愛を人々に伝える前に、40日間もの間、断食し、祈り、誘惑と向き合われたのです。教会はこれにならって、私たちひとり一人も、キリストの復活に与り、新しい命を授かって神様の子どもとして歩みだす復活日、イースターの前に、悔い改めと祈りの期間として40日を設けました。つまり、大斎節は、イエス様の荒れ野での40日間を信徒が共に歩む期間となります。そしてそれは、単に過去のイエス様の出来事を思い出すだけではなく、私たち自身もまた、神様と向き合う中で、自分自身と出会い、新しくされていくための期間なのです。

 でも、そう考えると、とてもしんどく、私たち凡人には到底不可能のように思ってしまいませんか。だいたい、みなさん断食ってできますか? 得意な方もおられるかもしれませんが、私には無理です。一食抜くだけでふらふらしますし、またイライラもします。そして40日間あらゆる誘惑と闘い続けるなんて、想像するだけで逃げたくなります。でも、そうではありません。もし、大斎節の40日間はすべての欲と闘い続けなさいなんていう教えであれば、キリスト教は二千年もの間続かない。とっくになくなっていたと思います。

 大斎節は、私たちが強くなる期間ではありません。むしろ、自分が弱い存在であることを知り、神さまがどんな時も共にいてくださることを思い起こす期間なのです。イエス様は、強いから荒れ野に行かれたのではありません。これから始まる歩みを、ただ神様に委ねるために、祈りの中へと入って行かれたのです。

 みなさんが、神さまを求めるときというのはどのような時でしょうか。そう、つらく、苦しい時ですよね。それは皆同じだと思います。すべて満たされてハッピーな時、あるいは自分に自信がみなぎっていて仕事がうまくいき、私って凄いと思えるようなときは、神さまは必要ないんです。はるかかなたへ遠く追いやってしまって、存在さえ忘れてしまう。それが私たち人間なんですね。

 どうしてそうなのかというと、今日の旧約聖書の創世記にあった通りです。聖書は、人間がどのような存在として造られたのかを、こう語っています。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」人は、ただの土の塊でした。しかし、神さまが命の息を吹き入れられたとき、人は生きるものとなりました。この「命の息」とは何でしょうか。それは、私たちが自分の力で生きているのではなく、神さまによって生かされている存在であるということを表しています。私たちは普段、自分が生きているのは当たり前だと思っています。しかし本当は、神さまの命の息によって、今この瞬間も生かされている存在なのです。

 最初の人間、アダムとエバは、神さまによってすべてを与えられ、守られ、満たされていました。しかし蛇はささやきます。「これを食べれば、あなたは神のようになれる」と。それはつまり、「神さまに頼らなくても、自分で生きることができる」という誘惑でした。

 そして彼らは、その言葉を信じ、自分の力で生きようとしました。その瞬間、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、恥ずかしくなりました。それまで神さまにすべてを委ねて生きていた存在が、自分で自分を守らなければならない存在へと変わったのです。これが聖書の教える罪です。罪とは、悪いことをすることだけではありません。神さまの存在を忘れ、自分の力で生きようとすることなのです。

 昨日の聖書の会で取り上げた放蕩息子もまた、すべてを失ったとき、「我に返りました」。「我に返る」とは、自分がどのような存在であるかを思い出すことです。自分は一人で生きているのではない。神さまの命の息によって、生かされている存在である。そのことを思い出すことです。

 そして今日の福音書で、イエス様は荒れ野で誘惑を受けられました。それは、神さまに頼らず、自分の力で生きるか、それとも神さまに信頼して生きるかという誘惑でした。イエス様は言われました。「人はパンだけで生きるものではない。」私たちは神さまの命の息によって生かされている。その真実に信頼して生きる道を、イエス様は示してくださったのです。わたしたちもまた、日々の生活の中で、神さまを忘れてしまいます。しかし、それでもなお、神さまは私たちを生かし続けておられます。そして私たちが「我に返る」とき、神さまは放蕩息子の父のように、私たちを迎えてくださいます。

 今日は礼拝の最後に、聖歌「いつくしみふかき」を歌いますが、この聖歌はそのことを思い起こさせてくれます。「いつくしみふかき 友なるイエスは 罪とが憂いを 取り去りたもう」

 私たちは一人ではありません。この歌にあるように、悩める時の最良の友であるイエス様にすべてを委ね、この40日間の歩みを共に進めてまいりましょう。