「終わりに見える場所で」
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マタイによる福音書27章1~61節
本日は復活前主日、そしてしゅろの日曜日と呼ばれる日で、今日から、教会は「聖週」に入ります。しゅろの日曜日は、イエス様が十字架にかけられる一週間前にろばに乗ってエルサレムに入られたという出来事を記念する日です。イエス様が過ぎ越しの祭の時期に弟子たちと共に都へ入ってこられたとき、人々は、まるで王様を迎えるかのように大喜びでしゅろの枝を振り、自分たちの来ているものを脱いで道に敷き、「ホサナ」(万歳!)と叫びました。イエス様こそが、自分たちをローマの圧政から解放し、自分たちを今の苦しみから救い出してくれる政治的なヒーローであると信じたわけです。しかし、「ホサナ」と叫んだ人々が、5日後には「十字架につけろ」と叫ぶ――この現実を、私たちは見つめるのです。この「ホサナ」と叫び、次の瞬間「十字架につけろ」と叫んだ人々は、まぎれもない私たちひとり一人です。これから始まる聖週において、私たちは人間の罪の深さと、それを引き受けられた神の愛の深さを、静かにたどっていきます。
今日の箇所、マタイ27章は、イエス様の受難の中心部分です。イエス様は裏切られ、見捨てられ、不当な裁きを受け、十字架へと向かわれました。誰も味方はいません。群衆も、弟子たちも、権力者も、すべてがイエス様を見捨てました。そして、愛する神さまにさえ見捨てられたと感じるほどの孤独を受けられました。イエス様は、完全に「ひとり」になられたのです。なぜでしょうか。それは、私たち人間一人ひとりの持つ苦しみ、孤独、絶望を、ご自身のものとして引き受けるためでした。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この叫びは、苦しみの中にあるすべての人の叫びでもあるのです。この叫びを乗り越えた先に、復活が待っていることを、イエス様は確信しておられました。しかし、その光が見えないほどの暗闇をあえて引き受け、私たちに寄り添うために、イエス様は十字架の死を選び取られたのです。
先週、私は教区の「フィリピン聖公会を訪ねる旅」から帰ってきました。正直に言うと、それまで私は、フィリピンという国について、ほとんど知ろうとしてきませんでした。しかし実際に訪れてみると、その歴史の重さに心を打たれました。フィリピンは、長い間、スペイン、アメリカ、日本といった国々に支配され、自分たちの文化や言葉、アイデンティティを守ることが難しい歴史を歩んできました。さらに今も、政治の問題、貧困、犯罪、国民登録すらされていない人々の存在、多くの民族と言語による分断――決して簡単な状況ではありません。しかし、それでも、私は思わずにはおられないのです。「こんなにも笑顔の多い国を、他に知らない」と。なぜ、これほどまでに厳しい現実の中で、あれほどまでに苦しめ続けられた歴史を持ちながら、人々はあのように優しく、温かく、笑っていられるのでしょうか。その根底に何があるのでしょうか。
イエス様は、人々に裏切られ、ただ一人で十字架へと向かわれました。それは、フィリピンの人々だけでなく、私たち一人ひとりの人生にも重なります。私たちもまた、理解されないこと、見捨てられたと感じること、どうしようもない苦しみを経験することがあります。イエス様は、そのすべてを知っておられます。私たちの信じる神は、遠くから眺めている神ではなく、同じ苦しみの中に立たれた神なのです。
今日お読みした最後の一節、マタイによる福音書27章61節には、はっとさせられる一文があります。それは、イエス様が十字架上で死に、その遺体がお墓に納められた後のことです。日もすっかり暮れ、すべての人たちがいなくなった後、「マグダラのマリアともう一人のマリアとは、そこに残り、墓の方を向いて座っていた。」すべてが終わったように見えるその時、ガリラヤからついてきていた二人の女性の弟子たちが、ただ墓の方を向いて座っていたのです。どんな表情をしていたのでしょうか。どんな会話がなされたのでしょうか。何も書かれていません。何もできない。何も見えない。絶望しかない。それでも、その場に留まり続けたのです。私は想像します。そこには小さな、しかし確かな「希望」があったのではないだろうかと。
私はフィリピンで出会った人々の笑顔の中に、この二人のマリアの姿を見たように思いました。現実は厳しく苦しみも多い。それでも、彼らは完全には絶望しない。なぜか。それは、十字架を通して与えられた希望が、彼らの中に生きているからではないでしょうか。
今日、私たちはここから、それぞれの生活という「聖週」へと遣わされていきます。ある人は、マグダラのマリアたちのように、目の前の大きな石(困難)を前にして、ただ立ち尽くすしかない暗闇の中にいるかもしれません。またある人は、かつての群衆のように、自分の期待通りにならない神さまに対して、失望や冷ややかさを感じているかもしれません。でも、思い出したいのです。イエス様が十字架で叫ばれたのは、まさに「そこ」にいる私たちと連帯するためだったということを。
これからの一週間、私たちはイエス様の苦しみを共に見つめます。しかしそれは、ただ悲しむためではありません。お墓の前に座り続けたマリアたちのように、そしてフィリピンの人々の笑顔が物語るように、「最悪の事態の中でも、神さまは共におられ、すでに新しい命を準備しておられる」という希望を握りしめるためです。お墓の方を向き、その沈黙の中に、必ず復活の光が差し込んでくることを信じ、共にこの聖週を歩んでまいりましょう。




