「復活のイエス様との出会い」
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ヨハネによる福音書20章19~31節
今日の場面の前半は、復活日の夕方の話です。先週の場面でマグダラのマリアが目にしたのは、空のお墓でした。さらにペトロともう一人の弟子も走ってお墓に行きましたが、彼らもそこで何も見ることはできませんでした。それがヨハネによる福音書20章10節までの出来事でした。今日は20章19節から始まっています。この飛ばされた11節から18節の間には、ある重要な出来事が書かれています。
それは、空の墓の外で泣いていたマグダラのマリアに、イエス様が現れたという物語です。最初に泣いているマグダラのマリアに近づいてきたのは、白い衣を着た二人の天使でした。天使たちは彼女に、「なぜ泣いているのか」と語り掛けます。マグダラのマリアは、イエス様の遺体がなくなってしまった、取り去られてしまいましたと訴えます。そう言いながら振り向くと、そこに復活のイエス様が立っていました。ただ最初、マグダラのマリアには、それがイエス様だとは分からなかったようです。しかしイエス様が「マリア」と名前を呼んだことで、マグダラのマリアはそれがイエス様だと気づきます。イエス様はマグダラのマリアに、弟子たちのところへ行って、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と告げなさいと伝えます。
そこでマグダラのマリアは弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げたのです。このマグダラのマリアとイエス様との出会いは、胸を打たれます。その箇所もまた分かち合いたいとは思いますが、今日は特に、マグダラのマリアがイエス様に出会ったということを弟子たちに告げたということをまず心に留めたいと思います。マグダラのマリアの話を聞いて、弟子たちは一体どう思ったのでしょうか。マリアが帰って来る前に、ペトロともう一人の弟子、これはヨハネだと言われていますが、その二人は他の弟子たちの元に戻っていました。
まずその二人の報告を、弟子たちは聞きます。マグダラのマリアが言うように、自分たちが墓に行ったとき、イエス様の遺体は無くなっていたというその言葉を聞いて、弟子たちはみな恐ろしくなった。それは何となくわかります。しかしそのあと、弟子たちの元にマグダラのマリアが帰って来て伝えているのです。「わたしは主を見ました」と。その言葉がきちんと弟子たちの心に響いていれば、彼らは勇気100倍、歓声をあげ、喜びあいながら部屋の中で過ごしていたはずなのです。けれども彼ら弟子たちの様子は違いました。聖書にはこう書いてあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。
マグダラのマリアの言葉を聞きながら、それでもユダヤ人を恐れていたわけです。イエス様が十字架につけられた今、次に狙われるのは自分たちかもしれない。神さまを冒とくした集団として、命を狙われるかもしれない。だからユダヤ人を恐れて、家にある戸という戸に鍵をかけ、みんなで集まってガタガタ震えていたというのです。不思議な光景です。なぜ復活のイエス様が、いつも自分たちのそばにいたマグダラのマリアに現れたのに、そのことを信じることができなかったのか。なぜ彼らは、いつまでも恐れの中にいたのでしょうか。
先週の礼拝の説教で、わたしはこんなお話をいたしました。
今日、復活日の朝、わたしたちの目の前に、復活のイエス様が目に見える形で現れているわけではありません。この後ろの聖卓の前に両手を広げたイエス様が立っているとすれば、今、この場にいる方はみな信じることでしょう。しかし神さまは、そうなさいませんでした。コヘレトの言葉3章1節には「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉があります。復活のイエス様との出会いは、わたしたちがお膳立てして設定するものではないのです。空のお墓でイエス様と出会うことのできなかった人たちは、それぞれの時に、それぞれの場所で復活のイエス様と出会いました。その後2000年間、復活のイエス様は様々な場所でたくさんの人たちと出会ってきました。そしてわたしたちもそうなのです。
お葬式のご奉仕をしながら、この言葉がよみがえってきました。自分で語った言葉のはずなのに、自分に対して語り掛けられている、いつしかそんな不思議な感覚をもたらされました。
2000年前、ペトロを含む10人の弟子たちは、マグダラのマリアの言葉を信じることができず、恐れの中で震えていました。暗い部屋で、これからどのように歩んで行けばいいのかわからない中、両手を広げたイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
その次の週、その場にいなかった弟子の一人トマスは、マグダラのマリアの言葉はもちろん、他の10人の弟子たちの言葉さえも信じることができませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とまで、トマスは言います。しかしそのトマスの元にもイエス様が来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエス様を見ないと信じることのできなかったトマスを、信じる者とされたのです。
復活の喜びを賛美する人たちの陰で、泣いている人たちがいます。復活の食卓を囲んでいる人たちの横で、食べる物がなく飢えている人たちがいます。イースターエッグに象徴される「新しいいのち」を感じ、イエス様と共に歩む人たちのそばで、生きることに疲れ、うずくまっている人たちがいます。わたしたちの中にも、おられるかもしれません。孤独を感じ、復活の喜びの中になかなか身を委ねることができない方。イエス様を感じることができず、神さまの愛を求めても実感がわかない方。「見ないのに信じる」、そのようなことなどできないと思っている方。
イエス様は、そんな一人ひとりの元に必ず来てくださいます。聖書が伝える復活物語は、お墓という決まった場所、また決まった時間に起こったのではありません。同じように復活物語は教会という決まった場所、また復活日礼拝という決まった時間に起こるのでもないのです。それぞれの人のところに、復活のイエス様は来てくださるのです。
そして両手を広げ、わたしたちに平安を与えてくださいます。その「時」はバラバラです。神さまが定められます。すでに「時」が来ている方、多くおられると思います。まだだという方、これがその「時」かもしれないという出来事が起こったら、それがあなたの復活物語です。その時はどうぞ、イエス様を受け入れてください。すべての人に神さまの愛が伝えられ、すべての人が「新しいいのち」によって生かされる、そのことを願い、祈り続けていきたいと思います。




