2023年12月24日<降臨節第4主日>説教

「お言葉どおり、この身に成りますように」

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 ルカによる福音書1章26~38節

 今日は、クリスマス・イブです。そして、同時に降臨節第4主日。教会によっては、降臨節第4主日にクリスマス礼拝を行っていますが、私たちはやはり、このイエス様のお誕生を待ち望むアドベントを最後の最後まで大切にしたいという思いから、今日は紫の期節の最後の日として礼拝をおささげしています。

 今日の福音書では、当時14,5歳であったと言われる少女マリアに天使が現れ、もうすぐあなたは聖霊によって身ごもり、その生まれる子は神の子と呼ばれますという大きなみ告げを受ける場面が読まれました。美術においては、「受胎告知」と呼ばれ、キリスト教美術史上、最も多く描かれた主題の一つとなっています。たいてい、お部屋の中に、大きな羽を付けた天使ガブリエルが左側に描かれ、天使と向き合うように、右側にマリアが座っています。中には、マリアの驚く姿を描いているものもありますが、多くは静止画のようで、両手を胸の前で合わせじっと天使の言葉に耳を傾けるマリアの姿があります。

 1450年頃に、フラ・アンジェリコによって、サン・マルコ 修道院の廊下の壁に描かれたフレスコ画があります。天使は、まるでマリアの親友であるかのような、とても親しみを感じる表情をしています。マリアはと言えば、ぱっと見た感じでは、何を感じ、何を考えているのか分かりません。驚きなのか、喜びなのか、戸惑いなのか、想像がつかないのです。ただ、じっと口を一文字に結び、目の前にいる天使のすぐ頭の上の空間を見つめているような感じです。とても柔らかい、清らかな雰囲気を漂わしつつも、なにか覚悟を決めたような、芯の強さを感じさせる表情です。二人の周りに描かれた風景が、二千年前のものではく、画家の生きた当時のものであるということもありますが、ここにいるマリアは単なる歴史上の人物ではなく、時空を超えて、今ここで神さまの言葉を聞いている私たち一人ひとりと重なってくるのです。

 天使は来て言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」と日本語で訳されているのは、「おめでとうございます!宝くじが当たりました」というような、やったね!というおめでとうではなく、喜びを表す挨拶です。どちらかと言うと、こんな感じではなかったでしょうか。

 「喜んで、マリア。神さまはあなたに大きなお恵みをくださることをお決めになったの。主はあなたと共におられるわ。」マリアはびっくりします。「いったい何のことですか?」天使は、彼女の心の中に恐れを見つけて言いました。「こわがらないで聞いて。神さまがあなたに与えられるお恵み、それは、あなたがこれから妊娠して、男の子を産むということなの。彼はイエスと名付けられ、偉大な人になるわ。イスラエルの王の座を受け継ぐことになる。」天使が何を言っているのか、まったく意味の分からないマリアはどぎまぎして尋ねます。「でも、私はまだ結婚していないんです。男の人を知らないのに、子どもができるはずないわ。」天使は答えます。「大丈夫。神さまから聖霊が送られ、あなたは神さまの力で包まれる。生まれてくる子は神さまの子どもなの。ほら、あなたのおばさん、エリサベトも子どもを産む年をとっくに過ぎて、ずっと子どもができなかったのに、今や男の子を身ごもってもう6か月よ。信じて、マリア。神さまにできないことは何一つないの。」そこまで息をのむようにしてじっと天使の言葉に耳を傾けていたマリアは、目を閉じ、ふうーと一息深呼吸して言いました。「わかりました。私のいのちは神さまのものです。あなたの言われる通りのことを私に受けさせてください。」そのマリアの言葉を聞いた天使は、喜びいっぱいに天へと帰っていきました。

 マリアは、当時ヨセフと婚約をしていました。人生で一番幸せな期間かもしれません。当時の習わしでは、婚約後、女性は1年間は実家で暮らし、婚約者と会うことはあっても、性的な関係を持つことは許されませんでした。結婚前に妊娠するということは姦淫、すなわち不倫の罪を犯したということになり、男性に訴えられると女性は石打ちによる死刑が定められていました。マリアももちろんそのことを知っていたでしょう。今まさに幸せの絶頂にいるというのに、これからそんな恐ろしいことになるかもしれないのです。また、その生まれてくる子は、神の子なんて呼ばれるといいます。いくら自分のおばさんが奇跡的な高齢出産をするからといって、「はい。わかりました」となるでしょうか? 私ならきっと断り、逃げ回ることでしょう。

 でも、マリアはいっさいそういうことをしなかったのです。あまりに天使の圧が強かったのか、あるいは催眠術にかかってしまったのか。おそらくそうではないと思うのです。なぜこの天使の言葉に戸惑いながらも、マリアは受け入れることができたのか。その答えは、天使が最初に言った「恵まれた方」という言葉、そして「主が共におられる」という言葉にありました。

 「恵まれた方」というのは、「神さまがあなたにお恵みをお与えになる」ということです。お恵みと聞くと、私たちの想像できる素晴らしいことと思いがちですが、神さまの目から見るとまったく違うことだってあり得るのです。私たちの頭では恐怖としか思えない、最悪な事態としか考えられないようなことでさえも、それは神さまからのお恵みなのです。神さまがなさることは、時に本当に人間には理解できません。けれどもそれが神さまのご計画であるかぎり、必ずそこに意味がある。その時は分からなくても、それらの苦しみや悲しみの向こう側に、必ず素晴らしいことが待っている。そう信じて生きることが信仰を持つということです。

 でも、この信仰を持つということも簡単にできることではありません。私たちは生まれながらにして、恐れ、疑い、怒り、妬みといった負の感情を持っています。それを拭い去ってくれるのは、ただ、天使がマリアにいった二つ目の言葉「主が共におられる」という真実なのです。どんな苦しみをも神さまの恵みとして受け入れることができる、絶望の中にも希望を見出すことができるは、ただ、主があなたと共におられることを知っているからなのです。マリアは、この二つの言葉「恵まれた方」「主が共におられる」を受け止め、戸惑いながらも、「これから私の身に何かが起こる。でもそれが神さまのご計画ならば大丈夫」という思いを、カチッとシートベルトを止めるように、自分のおなかの中に感じたのではないだろうかと想像します。

 マリアに告げられたその後の天使の言葉を、彼女はもしかしたら何も理解できなかったかもしれません。何が起こるのか、これからどうなるのか。でもそれらの心配事はすべて神さまにゆだねようと決心したのです。マリアが最後に天使に返した決心の言葉、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」、それは、「私のいのちは神さまのものです」という信仰告白です。神さまの素晴らしいご計画がなされるために、私を用いてください。そうマリアは答えたのです。

 今晩、イエス様は私たち一人ひとりの心にお生まれになります。私たちのもつ暗闇の中に一つの、決して消えない灯りが灯ります。その光があるかぎり、私たちはすべての出来事を神さまのお恵みとしてとらえ、希望をもって歩んでいくことができるのです。私たちのいのちは神さまのものであるということを心に留めながら、神さまの素晴らしいご計画に私たち一人ひとりが用いられますように、祈り求めてまいりましょう。