「神さまとわたしたち」
YouTube動画はこちらから
ヨハネによる福音書16章12~15節
教会は今週、三位一体主日を迎えています。ニケヤ信経には父子聖霊、つまり三位一体の定義といえるものが書かれています。
まず父は、唯一の神であり、全能であり、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主です。次に子は代々の先に父から生まれました。神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず生まれ、父と一体です、とあります。そしてわたしたちのために肉体を受け、十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられる。そして栄光のうちに再び来られるのだということです。最後に聖霊です。聖霊は命の与え主であって、父と子から出られ、父と子と共に拝みあがめられ、預言者によって語られた主だということです。わたしたちがこのことを毎週唱えるのには訳があります。それは、わたしたちは教会の信仰として、この三位一体の考え方を、その信仰を受け入れるということなのです。
今、このニケヤ信経の文言を聞いていて、「そんなこと、聖書に書いてあったかな?」と思う部分もあったかもしれません。イエス様の誕生や十字架はともかく、特に聖霊についてそこまで書いてあったっけと思われても不思議ではありません。
といいますのも、このニケヤ信経は、325年の第1ニカイア公会議、381年の第1コンスタンティノポリス公会議で採択され、それから世界中の教会で唱えられるようになったものです。
中には、この考え方を受け入れることができなかった教会もありました。それらの教会は「異端」とされていきます。そう考えてみると、この「ニケヤ信経」によって排除され、仲間とは認められなかった人たちがいるということ、何だか複雑な思いがします。いわゆる「神学的に」物事を突き詰めていくと、そのことで分断や争いがあるのだとすれば、それはとても悲しいことです。それよりもわたしたちは、もっと素直に、感覚的に、神さまの大いなる力、三位一体というものを受け止めてもいいのかもしれません。
というのも、今日の福音書の中で、イエス様はこのように言われているからです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」。理解できない。そうはっきりと言われているのです。イエス様と四六時中一緒にいた弟子たちにすらよくわからなかったものが、イエス様の十字架のあと数百年もかかって教理として確立されていったようなものが、果たしてわたしたちに理解できるのか。それよりも、感じるということが大切なのかもしれません。
今日、奉献のときに「聖なる聖なる」という聖歌200番を歌います。この聖歌は三位一体主日に用いられる歌で、「みつにいまして一つなる」とまさに父と子と聖霊のことを歌っているものです。聖歌にはこのように、教会暦、つまり教会の暦にあわせた聖歌というものもたくさんあります。クリスマスやイースターの曲は大変多く載せられています。この三位一体主日も200番と201番といった、二曲がおさめられています。
しかし隠された三位一体、といいますか、もう一曲、実は聖歌集に三位一体に関する曲がおさめられていることを、皆さんはご存じでしょうか。それは聖歌集の477番、「恐れにとらわれ」という曲です。
この曲は東京教区の宮崎光司祭が作詞したものです。彼は「聖公会の聖歌」という本を出しておられますが、その中でこの曲が出来た背景を、このように記しています。
「作者は、伝道目的でも、礼拝の必要性からでも、あるいは自らの趣味でも仕事でもないところからことばを編んだ。それは2003年1月、作者の父親が闘病生活に入る際の、家族の不安と恐れと祈りから自然発生的に生まれたもので、それを書き留めて散文詩にしたのは、ただ父親への私信的な行為でしかなかった。作曲家である父親に、入院中の心理状態で、何か、それまでにはなかった創作活動の力が出るのではないかという期待もあった。作者は、その年の初め、入院前の父親と共に、家族全員で手をつないで祈ったときに、『神よ、力を』ということばが与えられた。『思いを一つにして祈るときに、神は必ずよき道を備えてくださる、救いのみわざ、神の栄光はあらわされる。神のなさることに間違いはない、一点の陰りもない』という確信がそこから与えられ、その心のプロセスを書き留めたのが、最終的に以下の詩になった」。
その「以下の詩」というのが、「恐れにとらわれ」から始まる477番の詩です。共にいる神さまを信じ、見つめ、生きる力を、勇気を、希望を与えて下さいと祈る。父親の闘病をきっかけにこの詩は書かれましたが、わたしたち一人ひとりの心を代弁する聖歌として生まれたのです。
宮崎光司祭は、父で作曲家でもあった尚志さん、また弟でこれまた作曲家の道さんと共に手を携え、祈り、そしてこの聖歌を完成させました。聖歌集には作曲者の名前が書かれています。楽譜の右下に小さく書かれているのですが、曲名である「KANAME」の下に「Nitei Torii」、つまり「鳥居仁呈」と書かれています。
これは宮崎司祭たち三人のペンネームだそうです。「鳥居仁呈」、すなわち「トリニティー」、三位一体ということなのです。家族三人だから三位一体、それもあったでしょう。しかし手を取り合って祈るときに、彼らは確かに神さまの恵みを感じたのだと思います。
それは理屈などではなく、とにかくあなたたちを見捨てたりはしない。どんなことがあっても守り抜くという神さまの約束です。決意です。めんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしたちは集められ、神さまの愛で満たされるのです。
お母さんが赤ちゃんを愛するのに、理由などありません。おもらししても、ミルクをこぼしても、かわいいし、いとおしいのです。赤ちゃんもお母さんの愛を受けるときに、その愛の意味やお母さんがどうやって愛を示そうとしているかなんて、どうでもいいでしょう。お母さんのぬくもりが感じられればそれでいいのです。
わたしたちと神さまとの関係も、それでいいと思います。ただただ一方的に愛されていることを知り、その愛を素直に受け入れる。頭で理解できなくてもいい。父、子、聖霊、すべての働きがわたしたちを支えてくださるのです。
こんなに大きな喜びはないのではないでしょうか。三位一体の神のどの部分がどうやってわたしたちに関わっているのかが重要なのではなく、わたしたちが神さまに愛されているという事実が大切なのです。
どんな恐れの中でも、大丈夫。神さまが必ず何とかしてくださる。その神さまの思いが「三位一体」としてわたしたちに示された。その温もりの中で、わたしたちはこれからも歩み続けていきたいと思います。