2024年10月6日<聖霊降臨後第20主日(特定22)>説教

「かたくなな心」

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 マルコによる福音書10章2~9節

 マルコによる福音書は、全部で16章あります。今日は10章の2節からが読まれました。このマルコ福音書は、長大な受難物語と呼ばれることがあります。この福音書は、イエス様が受難へと向かっていく道にスポットを当てているということです。

 このマルコによる福音書の後半部分では、イエス様と弟子たちがエルサレムへと向かう中で、イエス様は受難の予告をし、そして弟子たちには大切なことを教え続けたということです。

 イエス様は、ご自分が十字架につけられることを、よくご存じでした。それもそんなに先のことではない、エルサレムに到着すればすぐにでも訪れることだということも、きっと分かっておられたことでしょう。だから、不安なんです。自分がいなくなったら、弟子たちはどうなってしまうのか。十字架のことを話しても、イエス様のことをわきに連れて行っていさめたり、誰が一番偉いのか議論したり、イエス様の名前を使って活動している人をやめさせたり。彼らはわかっていないのです。神さまのみ心を理解せず、イエス様の思いがわからない弟子たち。その弟子たちをほおっておけない、弟子教育という言葉が適切なのかわかりませんが、本当に大切なことをイエス様は伝え続けるのです。

 さて、では今日の箇所はどういうことを伝えようとしてるのでしょうか。聖書の小見出しには「離縁について教える」と書いてありますが、イエス様はその内容そのものを教えようとされたのでしょうか。

 聖書を読むときに、いつも覚えておきたいことがあります。それは聖書とは、わたしたちを滅ぼすために書かれたものではないということです。そうではなく、わたしたちを救いに導くために、書かれているということです。覚えておられるでしょうか。先週の福音書には、地獄という言葉が出てきました。地獄に投げ込まれるよりは、片手がなくなった方がいいとかいう箇所でした。わたしたちはギョッとしながら、その言葉を読みます。でも実は、聖書全体を通してみると、地獄という言葉はあまり出てきません。それよりも多く出てくるのは、復活や愛という言葉です。聖書を読んでいて、「ああ、神さまの愛に応えるために、こんなことできたらいいなあ」と思うことはあります。それはとても大事なことです。でも、「聖書にこう書いてあるからこういうことをしてはダメだ」とか、「聖書に書いてある通り、こういう人は罪人だから付き合ってはいけない」とかいうのは違うんですね。

 聖書は簡単にいうと、神さまがいかにしてわたしたちを愛して下さっているか、そのことが書かれている書物です。神さまがわたしたちを大切に思うがあまり、どうやって滅びから救い出そうとされたか。イエス様をわたしたちの間に遣わすことによって、いかにしてわたしたちに本当のいのちを与えられたのか。そのことを心に留めながら今日の箇所を読むとき、今日の「離縁について教える」という箇所は、もしかすると最初持っていたイメージと違った形で、わたしたちにメッセージを語りかけてくるのかもしれません。

 「離縁についての教え」、それは文字通りに捉えると、たとえば六法全書を開いてその項目について調べ、こういう場合はOK、こういう場合にはどのような刑に定められるという感じに思えるかもしれません。しかし今日の箇所、質問をしたのは、ファリサイ派の人たちでしたが、この質問には意図がありました。聖書にこうあります。「イエスを試そうとしたのである」。つまりファリサイ派の人たちは罠をはったのです。彼らがしたのは、「夫が妻を離縁することは律法に適っているか」という質問です。今日の旧約聖書と福音書で読まれた言葉、またキリスト教の結婚式の際に唱えられる言葉、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉に照らし合わせると、「適っていない」という答えになるのは明白です。

 ところがイエス様は、「モーセはあなたがたに何と命じたか?」と逆にファリサイ派の人たちに質問を返します。モーセというのは神さまから十戒を受け取った旧約聖書に出てくる人物で、エジプトからイスラエルの民を導き出した人でもあります。神さまから十戒を直接受け取ったにもかかわらず、彼は「離縁状を書いたら離縁することができる」と人々に伝えていたようです。律法にまったく反することを、モーセは言っていたのです。その理由をイエス様は、「あなたがたの心が頑固なので」と言います。

 「頑固、かたくなな心」、それはどのような心でしょうか。たとえば白か黒かはっきりさせたい、そういうこともあると思います。あるいは自分が言っていることだけが正しくて、相手を受け入れることができない、そういうこともあるでしょう。

 聖書の時代、男性と女性の立場はまったく違いました。女性の立場は大変弱く、自分の力だけで生きていくことはなかなかできませんでした。だから誰かの妻であることは、生きる上で大変大事なことでした。しかし男性は、少しでも妻に対して嫌なことがあると、すぐに家を追い出していたそうです。たとえば料理を焦がしてしまい、追い出されたなんてこともあったようです。すると女性は、どうなってしまうのか。律法の規定によると、その女性は再婚が許されないわけです。再婚ができないならば、女性は生活することができない。生きていくことができないのです。モーセはその状況を変えるために、離縁するときには離縁状を書かせるようにしました。そのことによって女性を婚姻状態から解放し、新たな道を進むことができるように整えたのです。

 イエス様がそのことを取り上げたということは、聖書や律法というのは決して杓子定規ですべてを考えるものではないということです。その律法を絶対視してしまい、当時は女性が生きていくことを妨げる人がいました。そして今も、聖書の言葉によって、自分を否定され、「あなたはダメだ」と言われていると傷ついている人がいます。今日の離縁という言葉に限らず、「~してはならない」という戒めに心痛め、自分は神さまから愛されていないと感じてしまう、そんな人たちがたくさんおられます。

 でも聖書は、そしてイエス様は、そうではないと言われるのです。神さまの愛は、四角四面の型にはまった、規則に縛られた中だけに注がれているのではありません。わたしたち一人一人、何度も神さまの前に見せられないようなことを、思いと、言葉と、おこないのなかでしてしまう。何度も神さまを裏切ってしまうし、何度も隣の人を傷つけてしまう。でも神さまは、それでも、そんなわたしたちを愛して下さっているのです。自分を変えることができずに、ただうつむいてしまうわたしたちに、「それでいいんだよ、わたしはあなたを愛しているから」と受け入れて下さるのです。そのことをいつも心に留め、歩んでまいりましょう。そしてわたしたちもまた、神さまがそうしてくださったように、その愛を伝えていくことができればと思います。