「わたしたちの間に宿られた」
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ヨハネによる福音書1章1~18節
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。「言が肉となる」、そう聞いて、みなさんはどのような印象をお持ちでしょうか。聖書の中で言葉が何か形になる、そのような場面があります。それは創世記の初めのところ、1章に書かれている天地創造の場面です。神さまは天地創造の初めの日、第一の日にこのように言われます。「光あれ」。すると聖書には続いてこのように書かれています。「こうして、光があった」と。神さまの言葉によって、光が生まれた瞬間です。続いて第二の日には神さまは大空を造り、聖書はこう書きます。「そのようになった」と。
さらに植物、天体、魚や鳥たち、動物を造られた神さま。神さまが命じ、それができていく。そして聖書は毎回、そのあとに「そのようになった」と報告していきます。
この言葉というものを、神さまの思いと訳された方がいます。カトリック教会の山浦玄嗣さんという、ケセン語に聖書を訳された方です。普段はお医者さんをされていますが、聖書の言葉を身近に感じることができるようにされた、そういう方です。
神さまの思いが肉となって、わたしたちの間に宿られた。そのことを深く感じることができるとき、それがクリスマス、イエス様の誕生のときなのかもしれません。
先週22日の降臨節第4主日の礼拝、そして祝会。24日には2部制のイブ礼拝、そして深夜礼拝。そして25日朝の降誕日礼拝にのべ350名近くの方が教会に来られました。
その方々と共に祈り、賛美し、聖書にみ言葉に耳を傾け、そして聖餐式では主の食卓を囲む。その中でわたしたちは、イエス様がわたしたちのために来られたことを感じ、そしてイエス様と共に歩んでいくことができたのではないでしょうか。
さて、水曜日の降誕日礼拝を終え、木曜、金曜とご年齢や体調などの関係でなかなか教会に来ることのできない方々のところに、聖餐式のウェハースを持って妻と共に行ってきました。わたしたちの奈良基督教会は長い階段の先に建っています。北門から行こうにも、まあまあ急な坂があって、行く手を阻んでしまいます。そのために、昔はあんなに楽しかった教会になかなか行けない。昔のように様々な活動をすることができない。そのような思いをお聞きすることがよくあります。今回の訪問の際には、一緒に教会でできた銀杏もお持ちしました。するとある方は、「ある年のバザーで売ったときにはひっきりなしに銀杏を買いに来られて、札束が積みあがっていった」とも言われていました。
ただそれらの訪問の中でやはり感じるのは、イエス様がいつもわたしたちの間におられるということです。そしてそれは訪問先だけではなく、わたしたちがお互いにしゃべっている中でも、誰かのために祈っているときにも、そして何よりもこの礼拝の中で、強く感じさせられることです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、神さまの思いが形となって、わたしたちの間に宿った出来事、それがクリスマスだとしたら、神さまの思いは何であるのかということを、もう一度確認しておく必要があると思います。
2000年前のユダヤのベツレヘムで起こった出来事、それはその時代、その場所に居合わせた人たちにとっては、まさに喜びの出来事だったことでしょう。そしてその喜びは、今、この場所で祈るわたしたちにも与えられています。イエス様の誕生によって、わたしたちにも本当の光が与えられたのです。
わたしは10代のときに洗礼を受けました。しかしそこから10数年、教会を離れてしまいました。30歳を過ぎて教会に戻ってきたとき、そこからは欠かすことなく礼拝に出席するようになったのですが、いつも「神さま、ごめんなさい」、「これからはちゃんとお祈りします」と祈っていました。表向きは楽しく、明るい青年を演じていましたが、実は心の中は闇が多く、今振り返ってみるととても危うい、そんな状況だったように思います。でも人にはその闇を隠し、神さまの前でもいい子でいようと頑張っていたように思います。教会に行くのは懺悔のため、祈る言葉はごめんなさい。自分には光が与えられているのかどうかもわからない、そんな中で毎日を過ごしていきます。ただ礼拝だけは欠かさず行くようにしていました。
そんな中でどういうきっかけだったのかは忘れましたが、「ヤベツの祈り」という本が与えられました。ヤベツという人は旧約聖書の歴代誌上4章10節に出て来る人物で、このようなお祈りをした人です。聖書のその部分をお読みいたします。
またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。
ヤベツという人物が祈った言葉、それは「わたしの領土を広げ」ということです。この言葉だけ聞くと、国の支配者が悪い考えをもって語っているような、そんな印象をもたされます。しかし本来の意味はそうではありません。「わたしが神さまのために働く場所を与えて下さい」、そういう意味なのです。その本を手にしてから、毎日のように読んでいました。「ごめんなさい」、「これからはちゃんとします」といつも暗闇に顔を突っ込んだまま祈り続けていたわたしが、「わたしは神さまのために何ができるのだろう」と思えるようになっていきました。「わたしの働き場所はどこですか」、「神さま、こんなわたしでよければ、どうぞ用いて下さい」、そう祈り続けて、わたしは今、ここに立っています。本当に不思議なことです。いつ自分の心に光を感じることができるようになったのか、多分ずっと光はあったのに、わたしがそれにただ気づかなかったということなのでしょう。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、神さまがイエス様をわたしたちに与えられたその理由は、わたしたちに本当のいのちを与えたいということです。暗闇をうなだれながら歩むのではなく、イエス様という光をまとい、歩んでほしい。それが神さまの思いなのです。
今日の特祷に、このように書かれていました。「全能の神よ、あなたは驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、さらに驚くべきみ業により、み子イエス・キリストによって、その似姿を回復してくださいました」。クリスマスの出来事、それは神さまの驚くべきみ業です。神さまとわたしたち人間が正しい関係に戻れるように、イエス様をわたしたちの元に遣わされ、わたしたちを生きるものとしてくださった。
神さまはわたしたち一人一人を愛しておられます。その愛の中で、光の中を歩んでいきましょう。そしてこの大きな恵みを、たくさんの人たちと分かち合うことができれば、本当にうれしく思います。今年はこの礼拝が教会でおこなう最後の礼拝となります。また来年も、ご一緒に祈り、共に賛美することができればと思います。