「私は何様??」
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ルカによる福音書14章1、7~14節
今日の福音書は、本当に人間の姿をよく表しているなあと思わされます。二千年前の人も、今の私たちも、あんまり変わっていません。
この箇所を読むと、私はいつもちょうど3年前に天に召された父のことを思い出します。父は神戸教区の主教をしていて、毎週のように教区内のあちこちの教会を巡回し、堅信式を行っていました。私は当時アメリカ留学中でしたが、夏休みに帰国すると一緒について行って、いろんな教会を訪ねました。
そうすると、礼拝のあとの食事会などで必ず「主教様、どうぞこちらへ。お嬢様も」と、一番上座に案内されるんですね。私は居心地が悪くて断って台所で手伝ったりしていました。でも父は、にこにこしながら「はいはい」と座るんです。記念写真を撮るときも、必ず場所は最前列の真ん中です。
あるとき「お父さん、牧師は仕える身なんだから、そういうときは、“いや、自分は端で”って言うべきでしょ」と言ったことがあります。すると父はこう言ったんです。「いやいや、私がさっさと座らないとみんな座れないし、食事も始まらない。おうどんは伸びるし、写真も炎天下で待たされる。私は座りたいんじゃなくて、みんなのために早く座ってるんだ」私はそれを聞いて「えー?」と思いながらも、妙に納得したのを覚えています。
昔は、教区にもよると思いますが、「司祭様」「主教様」と呼ばれて特別扱いされることが多かったように思います。今の時代はそうじゃなくなって、本当にありがたいことです。正直、私は「先生」と呼ばれるより「みささん」と呼んでいただきたいなと思っています。
かつて教役者会で「互いを先生と呼ぶのをやめて“さん付け”にしませんか」と提案しましたが、あまり共感されませんでした。「呼びやすいからそうしているだけで、上下を意識しているわけではない」と言われました。しかし、呼び合ううちに知らず知らず「自分は先生と呼ばれるべき存在だ」と思い上がってしまう危険を私は感じています。牧師にとってそれは大きな誘惑です。
高校生のとき、ある教会の講演会でナザレ修女会のシスターがこんなことを言われたのを聞きました。「クリスチャンとは、一に謙遜、二に謙遜、三・四なくて五に謙遜!」あまりに強烈で、講演の内容は全く覚えていないのですが、それだけははっきりと頭に焼きつきました。そのころの私は「謙遜」と言えば、褒められたときに「いえいえ、とんでもございません」と全力で否定することだと思っていました。アメリカでは褒められたら素直に「Thank you!」と答えますから、日本の慣習は不思議だなあと感じていました。
でも、大人になって本当の意味でキリストに出会い、「自分は本当に救われた」と確信を持つようになったとき、初めてシスターの言葉が分かった気がしました。謙遜って、人前でへりくだることじゃなくて、神の前で、自分の弱さや小ささを本当に知ることなんだなと。「神さま、あなたがいなければ私は生きていけません」――そう祈れること。それが謙遜だと分かったのです。
今日の旧約聖書続編のシラ書の朗読には「高慢の始まりは、主から離れること」とありました。高慢とは「神なんていなくても、自分の力でやっていける」と思うこと。それが罪の根っこなのです。
恒例となりました宣教ミュージカル、今年の演目はマザー・テレサに決まりました。彼女は世界中から称賛され、多くの賞を受けましたが、褒められるたびにこう言いました。「私は神の鉛筆です。」自分がすごいのではなく、神が描かれた。私はその手に握られた小さな鉛筆にすぎない――。なんて美しい謙遜でしょうか。
本当の謙遜を知っているなら、イエス様の宴会で上座に座るなんてできません。私たちは末席に座るでしょう。するとイエス様は来て、「さあ、もっと上座へ」と言ってくださるんです。この「さあ」という言葉の原語には、「友よ」というニュアンスが含まれているそうです。
そう、私たちはイエス様に「友」と呼ばれています。そしてイエス様は「あなたもこのように行いなさい」と言われます。つまり、見返りを期待せず、弱い人や貧しい人を招きなさいと。なぜなら、私たち自身が「お返しできない者」として神の国に招かれているからです。無条件の愛をいただいた者として、同じ愛を分け与えてほしい――それが神さまの願いです。
奈良基督教会で月に1回行われている「みんなdeごはん」も、その先取りです。上座も下座もなく、だれでもどうぞと食卓を囲む。これこそ神の国の姿です。これから始まる聖餐式は、その神の国の食事会のフォーマル版です。主はあなたを招いておられます。どうぞ喜んで、この食卓に与ってください。




