2025年9月7日<聖霊降臨後第13主日>説教

「イエス様について行こう」

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 ルカによる福音書14章25~33節

 本日は、奈良基督教会でうれしいことに3名の方の洗礼堅信式、そして2名の堅信式が行われます。按手を執行くださるのは、東北教区主教を退職され、現在京都教区で礼拝奉仕をお手伝いしてくださっている吉田雅人主教で、お説教もしてくださることになっています。ですので、前日に録画している私のこのメッセージはYouTubeの動画でのみということになります。ご了承ください。

 実は、今お読みした本日の聖書箇所を見て、ぎょっとしてしまいました。洗礼式、堅信式にもってこいの箇所ともいえるのですが、受けられる方の、ノンクリスチャンのご家族やお友達も礼拝に参加されるのです。「恐ろしい!」と思われたらどうしよう。。。とちょっと不安になってしまいました。ここじゃなくて、イエス様の心安らぐみ言葉、あかちゃんがお母さんの腕に抱かれてまどろむような、あるいはからからに乾ききった心に泉が湧き出るようなそんな箇所だったらよかったのに!と思ってしまうんですよね。でも、そこはメッセージくださる主教さんを信じて、そして聖霊が働いてくださることをしっかりと信じて礼拝に臨みたいと思います。

 さて、イエス様は十字架につけられるため、エルサレムに向かっておられます。弟子たちをはじめ、大勢の群集が必死に後をついてきていました。死んだ子をよみがえらせたり、目の見えない人を見えるようにしたり、悪霊を追い出したかと思えば、たった五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満腹にさせたり。次から次へと奇跡を行うイエス様は人の目にスーパーヒーローのごとく写っていました。それだけではありません。彼の話す言葉には人間のそれを超えた力、権威がありました。その権威をもって、今までの律法学者たちからは聞いたことのないような、感動をもたらす教えを説かれました。当時一人の人間として扱われていなかった小さな子どもの手を取っては、「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言い、たとえ話を用いて、隣人になるとはどういうことかを教えられました。また別のときには、安息日を守ることにおいて大切なことは、愛を行うことであって、ただ規則を守ることではないことを公の場で語り、愛の教えを広めておられたのです。

 このようなイエス様に出会った人々は「なんて素晴らしいお方なんだ、私も弟子になりたい。この人について行けばきっと幸せをつかむことができる。」そんなふうに思ったのでしょう。人々は、期待に胸を膨らませ、真剣な面持ちでエルサレムへ向かうイエス様から離れまいと、くっついていきました。

 ところが、あるとき突然イエス様が、ぞろぞろと自分の後ろにくっついてくる群衆の方をくるりと振り向いて言われたのです。「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない! 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない!」

 人々はその剣幕に青ざめたのではないでしょうか。自分の家族と自分の命を憎まなければ、自分の十字架を背負わなければ、そして自分の持ち物を一切捨てないならば、イエス様の弟子ではありえない。なんて怖い言葉でしょう。もし、文字通り受け取らなくてはならないのであれば、私は既にイエスの弟子失格です。夫に腹立つこともあれば、子どもたちともしょっちゅう喧嘩はしますが、やっぱり大好きです。憎むことなどできません。

 そして私は自分の命をとても大切にしています。十年ちょっと前にガンを患いましたが、今も定期的に検診を受け、ちょっとでも長く生き延びたいと思っています。自分の持ち物を一切捨てる? 想像すらできません。自分の十字架を背負ってついて行くなど意味がわかりません。この世界の一体だれがイエス様の弟子になどなれるのでしょうか?

 イエス様はこの中で、不思議なたとえを二つ語っておられます。ここに謎を解くヒントが隠されているのかもしれません。一つは、十分な費用があるかどうか計算しないで塔を建て始める人、もう一つは自分の兵隊の数より倍ほど多い兵隊をもつ敵軍に何も考えずに戦いを挑む王です。これらのたとえは何を意味するのでしょうか。どうやら両方とも、後先考えずに、そのときの感情だけによって物事を始めてしまう人のことを言っているようです。覚悟を持たずに何かを始め、途中で投げ出してしまう人の愚かさが語られているのです。

 イエスの弟子を志願してずっとくっついてきた人々は、エルサレムでこれから何が起ころうとしているのか、そしてこの先どういうことが自分に求められるのか、そのことを知ろうとせずに、ただ表面的にイエスにあこがれてついてきた人たちでした。ついていけば、自分は救われる、かれらの頭の中はその思いでいっぱいでした。イエス様は、そんなかれらの思いを見抜かれ、ご自分が今歩もうとしている道がどのような道なのか、かれらが本当にその後に従う覚悟があるのかを厳しく問われたのです。

 イエス様が進んでおられる道は、十字架への道でした。十字架とは私たちにとって、もはや単なる残酷な死刑道具ではありません。十字架とは、罪無きイエス様が私たちを救うためにご自分の身をささげてくださった、その事実です。そして、そのイエスの弟子になるということは、イエスに倣って十字架の道を歩くということ、それはすなわち、神さまのために、人のために自分の身をささげるということです。となれば、私たちはみんな、人のために死ななければならないのだろうか。もし、通りがかりにナイフを突きつけられている人がいたら、代わりに自分を刺してくださいと出て行くべきなのでしょうか。心臓移植を待っている人がいたなら、喜んで自分の心臓をささげなければならないのでしょうか。時と場合にもよるとは思いますが、それはちがうと思います。神さまから愛され、いただいた自分の命はかけがえのないものです。私たちはその命を一生懸命生き抜かなければなりません。その与えられた命をどのように使うのか、ほんとに今の生き方でいいのか、私は神さまのために生きることを人生の最優先に置けているだろうか。それを常に問い直すことが十字架の道を歩むことなのかもしれません。

 この自分の十字架を背負うとは、「命をささげる」なんていうととても遠いことのように思うが、それはすなわち、自分に与えられた時間を誰かのために使うことなのだ、というお話を最近聞きました。確かにと思います。ろうそくの炎が温かく美しく闇を照らしてくれるのは、ろうが少しずつ溶けて、小さくなっていくからです。生まれたての赤ちゃんがすくすく大きく育っていくのは、お母さんが、あるいはお世話する人が夜、自分の眠る時間を削ってミルクをあげたり、抱っこしてあやしたりするからです。私たちが、この世の生涯を終えた後、永遠の命に与ることができるのは、イエス様がこの地上でのご自分の時間を私たちのために使ってくださったからなのです。

 イエス様の後にくっついていた群衆は、それをまるで分かっていませんでした。しかし、私たちは知っています。イエス様についていく、イエス様の弟子になる、あるいはクリスチャンになるのは、救われるためではありません。私たちは皆、すでにイエス様の十字架によって救われているのです。この十字架による救いを信じ、受け入れたその瞬間から、少しずつ新しい世界が見え始めてきます。今まで白黒にしか見えなかった景色にちょっとずつ色がついていくように。それは、自分の時間を削って人に与えることに真の喜びを見出すことのできる世界です。自分がありのまま受け入れられていることを知り、人を受け入れることのできる世界です。喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣ける世界です。この世界こそが神の国です。私たちがそこに生き、その領域を神さまに協力して大きくしていくことが、イエスの弟子になることなのです。

 できるでしょうか。先々週の福音書にありましたが、ほんとに狭い戸口です。でも、心配いりません。イエスさまはこの覚悟をあなた一人に負わせるようなことはなさいません。私たちの力だけでは無理かもしれない。でも、洗礼式で、すべての誓約の言葉に「神の助けによって」という言葉が付くように、私たちが求めるならば、神さまは必ず助け主である聖霊を与えてくださいます。今こそ新たに信仰を告白し、いのちのパンとぶどう酒をいただき、聖霊を求めましょう。必ず、力強い風が、狭い戸口の内側へといざなってくれます。