「わたしの心に適う者」
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マタイによる福音書3章13~17節
今日の使徒書は、使徒言行録3章の13節から17節が読まれました。ここに書かれているのは、聖書の小見出しによると「ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる」という内容です。
そのペトロですが、イエス様の十字架と復活の後、彼はエルサレムでイエス様の福音を伝えていきます。復活の日には家じゅうのカギをかけて震えていた弟子たちでしたが、復活のイエス様に出会って、変えられたのでしょう。
使徒言行録には彼らのその宣教の歩みが記されています。また同じようにもう一人の人物、パウロの宣教についても語られます。パウロはイエス様の直接の弟子ではありませんでした。それどころかイエス様の十字架に賛成し、初めのころはキリスト教の人たちを迫害していました。ただ彼も使徒言行録9章に書かれている回心という出来事によって、復活のイエス様と出会い、そして変えられていくのです。そのペトロとパウロ、二人の間には考え方の違いがありました。
パウロは聖書の後ろにある地図やたくさんの手紙からもわかるように、何度も宣教旅行に出かけました。つまり、出かけて行ってユダヤ人以外の人たち、いわゆる異邦人と言われる人たちに対して福音を伝えていきました。外に向けた宣教です。
それに対してペトロは、エルサレムでユダヤ人を相手にしていました。ユダヤ人とそうでない人たちとの違いは、大きく二つありました。一つは律法をきちんと守っているかどうか。もう一つは割礼を受けているかどうかです。
福音書に出てくるファリサイ派は、「汚れ」というものをとても嫌っていました。律法を守れず割礼も受けていない人は、汚れている。ファリサイ派はそう信じていました。そしてそれと同じことを、ユダヤ人であるペトロも信じていたようなのです。
今日の使徒書は使徒言行録10章34節からですが、その前、9節以降にペトロが幻を見るという記事があります。その幻とは、律法で「汚れている」とされている食べ物が天から下りて来て、神さまから食べるように促された、というものです。しかしペトロは、それは汚れているので食べられないと言います。すると神さまは、こう言うのです。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。そのようなやり取りが幻の中でおこなわれたのち、コルネリウスという人物が訪ねてきたというのが今日の話です。コルネリウス、彼はイタリア隊の百人隊長、つまり異邦人でした。ペトロはその幻が、自分に対して「コルネリウスを受け入れなさい」ということ、もっというと異邦人を受け入れなさいということだと気づき、今日の使徒書の最初の言葉に結びつくのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。
わたしたちから見ると、ごくごく当たり前のことのように思います。神さまは誰に対しても同じように愛を注ぎ、導いてくださる。だからこそ、異邦人であり罪人であるわたしたちにも目を向けてくださる。手を差し伸べてくださるのです。
この、すべての人のために神さまが働かれるということ、そのことを示したのが、今日の福音書で読まれた出来事、イエス様の洗礼ではないかと思います。ではここから、福音書に目を向けてみましょう。
場面はイエス様が荒れ野の誘惑を受ける前のことです。荒れ野では洗礼者ヨハネが教えを宣べていました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉と共に、彼は罪を告白する人たちに対して、ヨルダン川で洗礼を授けていました。その洗礼者ヨハネの元に、イエス様が近づいていったのです。
洗礼者ヨハネはそれまで、近づいてくる人たちに厳しい言葉を浴びせていました。彼はファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、言うのです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。彼は裁いていました。人々の罪を、またファリサイ派やサドカイ派が表面上だけ清くなっている有様を見て、厳しい言葉で裁いていました。「悔い改めて、神さまの方を向き直れ」と彼は叫び続けました。
そのときにイエス様が来ます。彼は洗礼を受けるために並んでいる人たちの列に加わり、ご自分も洗礼を受けようとするのです。ヨハネはそれを見て、思いとどまらせようとしました。それはなぜか。ヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼だったからです。
洗礼者ヨハネは、罪ある人たちを招きました。人々が神さまの方を向かずに好き勝手なことをし、自分勝手に生きているのをやめさせ、神さまの方に向き直る。そのために人々に洗礼を授けていました。
でもこれで、救いを得ることができるのは、一握りの人です。自分の罪を認め、ヨルダン川まで出掛けていき、洗礼者ヨハネの叫び声に心を痛め、頭を垂れて洗礼を受ける。そしてその後の生活も、悔い改めにふさわしい実を結ぶものでなければならない。
わたしが高校を卒業して洗礼を受けたときの理解は、もしかするとそのようなものであったのかもしれません。これまでの人生の罪を認め、真っ白にしてもらう。でも洗礼を受けた次の日、ショックでした。いろんな場面で、前と何ら変わっていない自分に気づかされる。真っ白どころか、真っ黒のままの自分がそのままそこにいたのです。
でもそれが、人間なのです。わたしたちはいくら頑張っても、思いと言葉とおこないによって罪を犯し続ける。残念ながらそんな存在です。神さまもそのことをよくご存じでした。そしてそのままわたしたちが悔い改めることができずに、暗闇の中にいるのを良しとされませんでした。その結果が、イエス様のご降誕です。イエス様は洗礼者ヨハネが思いとどまらせようとした通り、罪なきお方でした。しかしあえて、洗礼を待つ人々の間に並ばれたのです。その列は、言うなれば罪人の列です。その罪人の間に、ご自分の身を置かれたのです。
その罪のゆえに、神さまに近づくことができなかったわたしたちが、その罪の中にイエス様が飛び込まれたことによって、神さまと共に歩むことを許される。それがこのイエス様の洗礼の出来事、神さまの心に適うおこないだったのです。
神さまの恵みは、選ばれた特定の人にだけ与えられるものではありません。神さまは、人を分け隔てなさらないのです。そしてわたしたちがどんな人間であったとしても、その中にイエス様が来てくださる。この恵みをわたしたちは受け、そして分かち合っていきたいと思います。
この一年も、わたしたちが神さまに愛されていることを知り、歩んでいくことができますように。その喜びを、一人でも多くの方々に伝えていくことができますように、お祈りを続けてまいりましょう。




