「神さまの約束が目に見える日」
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ルカによる福音書1章39~45節
今日与えられた福音書は、マリアとエリサベトの出会いを描いた美しい箇所です。婚約者のヨセフと一緒になる前に男の子を身ごもることを天使から告げられたマリアは、その不思議な出来事を誰にも話せず、話せたとしても信じてもらえず、苦しい思いをしていたかもかもしれません。自分と同じように、神さまの力によって、老齢でありながら子どもを授かったという親戚のエリサベトのところへ出かけてゆきます。エリサベトのいたユダの町は、マリアが暮らしていたナザレから歩いて四日ほどもかかる山道です。当時14,5歳だったと言われるマリアがそこまでどうやって行ったのかは書かれていませんが、それほどまでしてもエリサベトに会いに行きたかったのでしょう。ようやく着いて、マリアがエリサベトに挨拶をしたとき、妊娠6か月になるエリサベトのお腹の子(未来の洗礼者ヨハネ)が踊ったといいます。妊娠6ヶ月と言えば、まさに初めて胎動を感じる頃です。もしかすると、エリサベトにとってもおなかの子を自身の身体に感じたのはこのときが初めてだったのかもしれません。そして喜びにあふれて、声高らかに言うのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう!」これは、マリアに対する祝福の言葉でありながら、おそらく主が働いておられる奇跡を目の当たりにした自分自身とも重ねているのでしょう。自分の思いや意志とは別のところで聖霊が働かれるということ、私たちには計り知れない素晴らしい何かが起こっていること、これが神秘、ミステリーです。そしてこの神秘をマリアだけでなく、エリサベトだけでもなく、私たち一人ひとりに思い起こさせてくれる日がクリスマスなのです。
今、全国各地でクリスマスマーケットが開催されています。キラキラでピカピカでロマンチックでうっとりします。でも、悲しいかな、どこにも神秘がありません。奇跡がないのです。そこにあるのは、人工の光だけです。クリスマスとは、神さまの愛が目に見えた日。暗闇の中でうずくまり、立ち上がることもできない人の目の前に、一筋の光が差した日。神の約束が実現した日なのです。
先日、私がチャプレンとして務めている学校に、96歳の卒業生が訪ねて来られました。その前に近くにあるデイサービスセンターから事前に連絡があり、なんとかこの利用者さんを母校へ連れて行ってやりたいということでした。認知症で、すごく怒りっぽくなっておられるが、時折、高校時代に覚えたという聖歌やお祈りを口ずさむ。その場所へ行ったら何か思い出されるかもしれない。そういうお話だったのです。言われた通り、到着して車椅子のまま車から降ろされるなりTさんは、「痛い!寒い!もう、どこへ連れてくんや!」と大きな声で怒っておられました。それが、チャペルの中へ入るなり、顔つきが変わり、急に歌われたのです。聖歌の「主よ、みもとに近づかん」でした。私はすぐ、聖歌集をお渡しし、オルガンを弾いて一緒に歌うことにしました。その後、「もろびとこぞりて」と「きよしこのよる」も一緒に歌いました。その後、すごく良い表情をしておられるので、介護士さんが「Tさん、何か思い出した?このチャペルでしたこと覚えてる?」と聞くと、Tさんは、我に返ったように「何も覚えとらん!」とまた怒り口調で答えられました。ところが、よく見ると頬に涙が伝っているのです。介護士さんと私は胸がいっぱいになりました。そして、「Tさん、お祈りは覚えておられませんか?」と聞くと、大きな声で「天にましますわれらの父よ、願わくはみ名を聖となさしめたまえ。御国を来たらしめたまえ…」そう、主の祈りを文語で唱え始められたのです。私も子どもの頃はまだ主の祈りは文語でしたから、それをがんばって思い出しながら一緒に唱えました。介護士さんによると、いつもは途中で分からなくなるのだけれど今日は最後まで唱えられてびっくりしたとのことでした。その後、これからも健康が守られますようにと彼女の手を取ってお祈りをさせていただきました。
その後、その間ずっと感極まっておられた介護士さんが、また耳元で大きな声で聞いてみられたんです。「Tさんたちの時代の制服はセーラー服でしたか?」すると、Tさんは「そんなもん着とらん」と大きな声で怒るように言われた後、ふと遠くを見るような表情でしばらく沈黙されました。そして、私の目をしっかり見て言われたのです。「もんぺ、履いとったな。」私と介護士さんはハッとして顔を見合わせました。Tさんは、96歳、昭和3年生まれです。計算してみると、彼女の高校時代は、太平洋戦争の末期であったことが分かりました。前に、学校の記念誌で、セーラー服に憧れて入学したのに戦争が始まるとはモンペを着せられて悲しかったという生徒が書いた文章とその当時のセピア色の集合写真を見たことがありましたが、実にあの写真の時代におられた方だったのです。その状況の中で、聖歌と主の祈りを覚えられたということ、そして、それらが認知症になっていろんなことが分からなくなり、ほぼ怒りの感情しか残らなくなった今でも心の中に留まっていて、ことあるごとに口ずさんでおられるということを知って、あたたかいものがこみ上げてくるような、何とも言えない気持ちになりました。介護士さんも感動して、Tさんの良い表情をたくさん動画と写真に収められていましたが、それを後日ご家族に見せられた時、娘さんは、「母にまだこんな良い表情ができただなんて!」と泣いておられたとの連絡をいただきました。
Tさんの身に起こった出来事も感動的ではありましたが、私は、認知症で普段から暴言を吐いたり暴力をふるったりされる利用者さんたちであっても、お一人お一人の思いにしっかりと寄り添うそのデイサービスセンターの方々のお姿にも心打たれました。私たちの間に、神さまは本当におられ、そこに神の国があるということをこの目で見せていただいたのです。ほんとうに、神さまのなさることは、時に適って美しい。このクリスマスを待ち望む時期に、暗闇の中に輝く光を見せてもらった気がしました。
クリスマスとは、神さまの愛が感じられる日、神さまの約束が目に見える日、主がおっしゃったことは必ず実現するということを思い出させてくれる日です。皆様の上に、神さまの豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。そしてそのいただいた祝福とお恵みを今暗闇の中にいる多くの人たちとともに分かち合うことができますように。