2025年10月5日<聖霊降臨後第17主日>説教

「神さまのしもべ」

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 ルカによる福音書17章5~10節

 教会は今、聖霊降臨後の期節を過ごしています。この時期は緑の祭色が用いられますが、その緑という色には成長という意味が込められています。わたしたちはこの時期、信仰の成長ということに目を向ける必要があるのかもしれません。

 今日の福音書は、弟子たちのこのような言葉から始まっています。「わたしどもの信仰を増してください」。信仰を増してほしいと願うということは、自分たちの信仰では足りない、その自覚を持ったということです。彼らはどうしてそのように思ったのでしょうか。

 今日読まれたのは、17章5節からです。その前、1節から4節にはこのように書かれています。

 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 イエス様が弟子たちにこのように言ったのに対して弟子たち、ここでは使徒たちと書かれていますが、彼らは困惑してしまったわけです。そんなことできるのだろうかと、うろたえたのです。

 イエス様が語った言葉は、まずこうです。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」。そしてさらに「これらの小さい者の一人」をつまずかせるならば、首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれてしまうよりもひどい目にあうぞというのです。これらの小さい者、それは前回登場した貧しいラザロであり、15章の三つの「見失ったもののたとえ」を語るきっかけとなった罪人や徴税人であり、また社会の中で小さくされた人のことなのでしょう。そのような人たちを、つまずかせないことを求められています。

 また兄弟、これは仲間や共同体の一員ということでしょうが、その人が罪を犯したら戒めなさい。これはできそうです。でも1日に7回あなたに罪を犯しても、7回「悔い改めます」というのであれば、赦してやりなさいと言うのです。1日に7回です。7というのはユダヤでは完全数ですので、要は際限なく赦しなさいというのです。

 この二つのことを聞いて弟子たちは、自分の信仰だけではできないと感じました。そこでイエス様に頼んだのです。「わたしたちの信仰を増してください」と。自分の信仰だけでは足りないので、もっと大きく強い信仰を持てるようにしてくださいと願ったのです。

 信仰を強くしたい。その思いはわたしたちも持っているのかもしれません。「強い信仰さえあればこういうときに、自分の力だけで歩むことができるのに」、そんなふうに思ったことがある人もいることでしょう。しかしイエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われます。逆に言えば、あなたたちにはからし種ほどの信仰さえもないと言われているのです。からし種は当時、一番小さい種だと考えられていました。それほどの信仰もないというのです。

 強くありたい。大きくなりたい。果たしてその思いは、神さまのみ心に適ったものなのでしょうか。そのことを思うときに、わたしは一つの詩を思い出しました。その詩は『苦難にある者たちの告白』というタイトルで、ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩です。お読みいたします。

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く、従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに

よりよきことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに

賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるように 命を授かった

求めたものは一つとして 与えられなかったが

願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず

心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 このような詩です。わたしたちは神さまにたくさんのことを願います。このようになりたい。こんな自分でいたい。しかしその願いがそのままの形でかなえられることは、どれくらいあるのでしょうか。わたし自身これまでの人生を振り返ってみても、様々な挫折や失敗を繰り返してきたことに気づかされます。強さを求めたのに弱さが与えられ、自分の力の足りなさに気づかされ、自分の思い描く道から外れていきました。でも今、振り返ったときに、すべてのことが用意され、すべての道が整えられていたことに気づかされます。これまでの人生で無駄なことなど何ひとつなかったし、結果的に一番ふさわしい場所に立たせてもらっている、そのようにも感じるわけです。

 今日の箇所の後半部分、イエス様は「僕であること」はどういうことかを語られています。命じられたことを果たしたからと言って主人は感謝するだろうか、と書かれると、少し寂しい気持ちになるのも事実です。

 でもそうではない。イエス様が言いたいのは、わたしたちは自分の力だけで何かをしよう、自分の思いだけで物事を解決しようとしなくてよい、ということなのです。わたしたちは神さまから与えられた道を歩み、神さまから与えられた賜物によって生かされています。

 神さまにすべてをお任せして、歩むこと。それが信仰です。自分で解決することではありません。わたしたちの代わりに神さまが働いてくださる。それ以上に大きなことがあるでしょうか。

 わたしたちの教区も、わたしたちの教会も、そしてわたしたち自身も、神さまは目を掛け、いつくしんでくださいます。そしてわたしたちに素晴らしい道を与えてくださいます。それはわたしたちの祈り求めていることとは違うかもしれません。

 しかし必ず、わたしたちを定められた時に、良いところに導いてくださる。そのことを心から信じて歩んで行きたいと思います。

 わたしたちの思いをはるかに超えて、すべてを備えてくださる神さまに感謝しましょう。