「目を覚ます」
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マタイによる福音書24章37~44節
今日から教会は、新しい一年に入ります。日本聖公会ではこの時期のことを、降臨節と呼びます。降臨という言葉を辞書で調べますと、神や仏、またはその徳が地上に現れることを意味するということです。特に宗教的な文脈で使われることが多いようですが、最近ではそれ以外の使われ方もあるようです。
神が地上に現れること、そのような意味で捉えると、例えば聖霊降臨日というのはよくわかります。イエス様が約束した聖霊なる神さまが地上に現れた。炎のような舌という形で人々の頭上にあらわれた。そのようなことが意味されています。
ではこの降臨節は、どういう意味でしょうか。イエス様が地上に現れるときは「降誕」ですから、ちょっと時期が違います。では何でしょうか。わたしは神さまの思いが現われる時だと思います。わたしたちに救いのみ手を差し伸べようとする神さまの思いが、この地に現れる。だからわたしたちはこの期間を降臨節と呼び、大切に守っているのです。
このようにキリスト教での新しい年の始まりは「待ちわびる」、それがスタートなのです。日本のお正月の風景を思い起こしてみると、初日の出を見て、おせちを食べて、「おめでとう」と言い合う。言うなれば、すでに光に満ちたイメージです。
しかしキリスト教の一年の初めは紫の祭色が示すように、どこか暗く、静かな中で、自分を顧みながらただただ神さまからの愛のみ手を待ち望む。言うなれば、夜、闇の中にいるようなイメージです。新しい始まりをウキウキと光り輝く中で迎えるのではなく、静かな沈黙の中で迎える。これはユダヤの日の数え方にも関係するように思います。わたしたちは一日の始まりは、感覚的に朝だと思っていると思います。
しかし、ユダヤでは違ったんですね。ユダヤでは一日の始まりは日没と共にやってきます。ということは、まず、夜からスタートなのです。夜に心を神さまに向けて眠りにつき、新しい朝、朝日が昇り、光が来るのを待ちわびる。それと同じことが教会暦の中でおこなわれているということなのです。
この新しい年、今日はまず特祷に目を向けてみたいと思います。聖公会の礼拝で用いられている特祷は、その教会の暦にふさわしいお祈りが用いられます。今日のお祈りは、このような言葉から始まっています。「全能の神よ、み子イエス・キリストはわたしたちを顧み、謙遜なみ姿でこの世に来られました。」
謙遜なみ姿、謙遜という日本語を使うと、何か、態度とか姿勢とか、そういうことになってしまいますが、ここで言いたいことは最も低いところに立たれたということです。お城や王宮ではなく馬小屋で生まれたイエス様。最初に拝みに来たのは長老でも祭司でもない、野宿をしていた貧しい羊飼いたち。でもそれは、一番低いところに立つことによって、低い場所にいる人々と関わるため。つまりはわたしたちと共におられるためでした。
そしてそのことを知ったわたしたちは、続けて祈るわけです。「どうか今、闇の業を捨てて、光のよろいを着る恵みを与え」と。この言葉は、今日の使徒書ローマの信徒への手紙13章12節にも書かれている言葉です。「夜はふけ、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。
闇を捨てて、光のよろい、武具を着る。そのことがわたしたちに求められているわけです。しかし同時に思いませんか。どうやって、そんなことできるのって。闇を捨てるというのは、なんとなくイメージできます。悪い思いやおこないをやめる。そういうことでしょう。では光のよろいって何でしょう。光の武具って見たことありますか。わからないものを、どうやって身に着ければよいのでしょうか。
この時期、光といって思い起こすのはイルミネーションだと思います。奈良基督教会でも、みなさんとご一緒にできる範囲で飾りつけをしています。夜、とてもきれいですので、時間があったら見てみてください。
さて、クリスマスイルミネーションを最初に始めた人って、誰だかご存じでしょうか。諸説ありますが、一説にはドイツの神学者、マルティン・ルターだと言われています。ルターと言えば、宗教改革をした人としても有名です。
彼はあるとき、森の中を歩いていたそうです。そのとき彼は木の間から見えるたくさんの星の輝きに感動します。暗闇にまばゆく光るその明かりを、彼は子どもたちにも見せたいと考え、そこからクリスマスイルミネーションが始まったと言われます。本当の光を知る人が、その光の温もりを伝えようとする。それがイルミネーションなのかもしれません。
イルミネーションを見て、幼稚園の子どもたちは歓声をあげます。保護者の方々もうれしそうです。前の商店街を歩く人もそれを見て、「ワォ!」って声を出します。でも中には、うつむいたまま暗い表情で、光にまったく気づくことなく、足早に過ぎていく人もいます。
わたしたちがイルミネーションを飾るその理由の一つは、そのような人、暗闇の中でうずくまり、どこに向かって歩いていったらよいのか、道を見失っている人たちに、その光を見せたい。そしてその人工的な光の向こう側にある、本当の光を伝えたい、そういうことなのではないでしょうか。
その本当の光、神さまの愛という光に包まれたときに、わたしたちの身体は光のよろいに包まれるのです。光の武具を身に着けて、歩むことができるのです。その本当の光を共に待ちわびる時、それがこの降臨節なのです。
福音書の中でイエス様は、「目を覚ましていなさい」と命じられます。とても恐ろしい描写と共に書かれていますが、大切なことはただ一つ、いつも神さまに心を向けるということです。
闇の中にいても、必ず光が与えられる。夜は必ず明け、朝が訪れる。そしてそのことを心に刻みながら、この紫の期節、降臨節を過ごしてまいりましょう。そして必ず訪れる喜びの日、イエス様のご降誕を迎える準備をしていくことができればと思います。
わたしたち聖公会では、こうして毎年、イエス様のご降誕や十字架、復活を繰り返し思い起こしながら、礼拝を守っていきます。しかしそれは単純な繰り返しではありません。去年とはまた違った思いでこの新しい年を迎えた方も多いと思います。
それこそが、神さまが一人一人に与えて下さるお恵みです。今日、この礼拝で感じられたことをどうぞ大切にし、この一年をイエス様と共に歩んでまいりましょう。そして今年の降誕日に、一人でも多くの方が神さまの光に包まれますように、お祈りしていきたいと思います。




