「幸いなるかな!」
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マタイによる福音書5章1~12節
おととい、親愛幼稚園では「がんばろう遠足」がおこなわれました。若草山の原生林の中を歩く毎年恒例の行事で、年長組の子どもたちが14㎞という道のりを6時間以上かけて歩くという、なかなかハードなイベントです。わたしは後方支援ということで、車に乗って、要所要所で子どもたちに会うというのが役目なのですが、それでも結構疲れました。ところが子どもたちは園に帰って来てからも、いつまでも園庭で遊んでいました。本当にたくましくなったなあと、神さまに感謝です。
さて、その遠足は礼拝からスタートします。この礼拝堂に集まって、その月の聖句をみんなで唱えた後でわたしが話をし、お祈りをしてから出発するという流れです。今月の聖句は、「互いに励まし合いましょう」でした。14㎞という長い道のりを歩くときに、本当にピッタリなみ言葉だなあと思いながら、お話しをしました。決して一人ではできないことも、誰かと一緒ならできるようになる。そして何よりも神さまが共にいて、励ましてくださる。そんなお話しをしました。
わたしたちは今日、逝去者記念礼拝のために集められました。昨日は教会墓地で墓地礼拝がおこなわれ、たくさんの方々と共にお祈りをささげました。そして今日はこの教会に関わる逝去者の方々をおぼえ、お祈りをおささげします。
なぜわたしたちは、こうして天に召された方々を覚えてお祈りするのでしょうか。このお祈りがないと天に召された方が天国にいけないからでしょうか。そうではないですね。天に召された方々は、すでに神さまのみ許で憩っておられることと思います。ではちゃんとお祈りをしないと、祟りでもおこるのでしょうか。それも違います。では何故、わたしたちはこうしてみんなで、お祈りをおささげするのでしょうか。少しご一緒に考えてみたいと思います。
この逝去者記念礼拝で読まれる聖書は例年、マタイによる福音書5章の「山上の説教」というイエス様の言葉が選ばれています。今日の箇所の冒頭は、このように始まります。
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。
「この群衆」と聖書には書かれています。さてそれは、どのような人たちのことでしょうか。今日の箇所はマタイ5章1節からですが、その直前、4章23節から25節に、どのような人たちがイエス様の元にやって来たのか、書かれています。お読みします。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
想像してみてください。イエス様の前にいた群衆の姿を。それは喜びにあふれた人たちではありませんでした。病気に侵され、苦しみの中にあり、生きる希望を見失い、神さまにも見捨てられたと思われていた人たち。それが「この群衆」と聖書が記す人たちです。その人たちの中には、悲しみが、痛みが、そして嘆きが支配していました。どうしようもない現実の中でもがき、苦しみ、そしてイエス様にすがるしかない状況の中でやって来たのです。そしてイエス様は、そのような人たちに対して語られたのです。
イエス様は、一体何を語られたのでしょう。3節の言葉を読みましょう。わたしたちが使っている聖書は、日本語の文法に従って語順も整えられていますから、こうなります。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。
しかしこれを、原語のニュアンスが伝わるように訳してみると、こう変わります。
「幸いだ、心の貧しいあなたがた。天の国はその人たちのものだから」。
この訳を聞くと、文語訳を思い出す人もおられるでしょう。「さいわいなるかな、心の貧󠄃しき者。天国はその人のものなり」。文語訳ではこのように訳されていました。つまりイエス様は、ボロボロになり、疲れ切って前も向けない人たちに対し、「幸いなるかな」、「幸いだ」とまず宣言されたのです。
わたしたちの人生には、喜び、そして悲しみが訪れます。そして悲しみの大きな一つの出来事は、愛する人が天に召されたことなのではないでしょうか。教会の礼拝では、この30年の間に天に召された教会関係者のお名前を読み上げます。およそ200名の方々です。さらに1916年から今までの、教会に関係する方々、さらにみなさんのお心にある神さまのみもとですでに憩われている方々、そのようなお一人お一人を思い起こすときに、わたしたちの心にはそのときの悲しみがよみがえってくるかもしれません。
イエス様は、群衆を前にして叫ばれました。「幸いだ」と。誰がどうみても幸いではない、それどころか不幸にしか見えない人々を前にして、「あなたたちは幸いだ」と宣言されました。「幸いだったらいいね」とか「幸いでありますように」ではありません。イエス様は群衆に、慰めを語り、希望を語り、そして約束を語られました。神さまはあなたがたを憐れんでくださり、あなたがたの前には光が訪れ、そして神さまはあなたがたを決して見捨てはしないという力強い言葉を、群衆に語られました。そしてその言葉は、今、この場にいるわたしたち一人ひとりにも届けられています。
心が貧しい、つまり心が乾ききっている人、そして悲しむ人。それはわたしたちの感覚では、不しあわせな人なのかもしれません。でもそれが、幸いなのだとイエス様は言われます。なぜなのでしょうか。それは神さまに頼らざるを得ないその人を、神さまが励ましてくださるからです。目をかけてくださるからなのです。「互いに励まし合いましょう」という聖句、この言葉は、わたしたちの人生の中に、そしてこれからの歩みの中に、いつも心に留めていきたいものです。日々の生活の中で、共に悲しみを担ってきたわたしたちだからこそ、お互いに励まし合い、支え合いながら歩んでいきましょう。
そしてその原動力は、わたしたちを愛し、励まし続けてくださる神さまにあります。わたしたちをいつも見守り、「幸いだ」と慰めを、希望を、そして約束を与え続けてくださる神さまの恵みを感じ、共に励まし合いましょう。そして今日、お祈りに覚えるすべての逝去者の方々、心に覚える天に召された愛するお一人お一人が神さまのみもとで憩っていることを信じ、神さまの平安が豊かに与えられますよう、お祈りを続けてまいりましょう。